ジェームズ・ボンド_(架空の人物)
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11歳のとき、シャモニー近くのエギュイユ・ルージュでの登山事故で両親が亡くなり、孤児になった[25]イートン・カレッジ :ボンドの母校で、2学期間過ごした。

両親の死後、ボンドはおばのミス・チャーミアン・ボンドと一緒に暮らすためペットボトムの村に行き、そこで初等教育を修了する。その後、「12歳くらいの時に」イートン・カレッジに一時的に通ったが、メイドと恋愛問題を起こし2半期後に退学する[22]。ボンドはイートンから放校になった後、父親の出身学校であるスコットランドのフェティス・カレッジに送られた[24]。16歳のときに初めてパリを訪れたボンドは、そこで初めて性体験をし、後に短編『薔薇と拳銃』で当時を回想している[26]。フレミングは自身の体験を基にしてキャラクターを作っており、ボンドはフレミングと同様にジュネーヴ大学に短期間通ったことをほのめかし[27]、後に短編『オクトパシー』で殺害されたハンネスオーバーハウザーによってキッツビューエルでスキーを教えてもらったことにしている[26][28]

1941年、ボンドは国防省になる予定だった支部に加わり、王立海軍志願兵予備隊の副官となり、戦争終了時には海軍中佐(コマンダー)だった。公務員の一部である「シークレットサービス」内の役職に応募すべくMに連絡し、首席官に昇格する[29]

フレミングの最初の本『カジノ・ロワイヤル』の冒頭で、ボンドはすでに00エージェントであり、ニューヨーク市のロックフェラー・センターRCA ビルディング(その後、英国安全保障調整局(BSC)本部を収容)の36階にいる日本人のスパイと、イギリス人エージェントを裏切ったノルウェーの二重エージェントの2名を殺した後、この地位を与えられた。ボンド学者のジョン・グリズウォルドは、これらがイギリスの第二次世界大戦の秘密軍事組織である特別作戦執行部のためにボンドが行った戦時中の任務の一部であったことを示唆している[30]。1954年、ソビエトのファイルによると、『ロシアより愛を込めて』で、ボンドは聖マイケル・聖ジョージ勲章を受賞した[29]
好みとスタイル
飲料

フレミングの伝記作家アンドルー・ライセットは、「[『カジノ・ロワイヤル』]の最初の数ページ以内で、イアンはボンドの特異性や特徴のほとんどを紹介していた」と述べた。ボンドの外見、ベントレー、喫煙と飲酒習慣も含まれていた[31]。ボンドのマティーニの詳細は本の第7章で出てくるが、ボンドは最終的にはヴェスパー・リンドにちなんで「ヴェスパー」と名付けた。

ボンドの飲酒習慣に関する描写は、本のシリーズ全体で登場する。『女王陛下の007』の間だけで、ボンドは46の飲み物を消費している。プイィ・フュイッセリクヴィールマルサラワイン、アルジェリアのワインのボトルをほとんど、1953年物シャトー・ムートン・ロートシルトクラレットを少々、 テタンジェとクリュッグシャンパンとベイビーシャムを飲んでいる他、ウイスキーとしては水割りバーボン3杯、1パイントのIWハーパーバーボン、 ジャックダニエルのウイスキー、ロックのダブルバーボン2杯、ウイスキーのソーダ割り2杯、ストレートのスコッチ2杯、ストレートのウイスキー1杯を消費している。ウォッカの消費量は合計でウォッカトニック4杯、ダブルウォッカ・マティーニ3杯だった。他のスピリッツとしては、ジンジャーエールで割ったダブルブランデー2杯と、フラスコ1配分のエンジアン・シュナップスと、ダブルジンが含まれており、さらにジョッキ4杯分ドイツビールを飲んでいる[32][33]。ボンドのアルコール摂取は仕事の遂行に影響しないらしい[34]

ノンアルコール飲料について、ボンドは紅茶を避け、「泥」と呼んで大英帝国の没落の原因だとしている。


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