フレミングによると、ジェームズ・ボンドの年齢は30代半ばから後半で、年はとらない[19]。『ムーンレーカー』では、彼は00セクションの規定定年年齢である45歳を8歳下回っていることを認めている。つまり、当時37歳だった[20]。その小説の脚注には、作中が1954年11月で、ボンドが1917年頃に誕生したと記されている。フレミングはボンドの誕生日を設定しなかった。しかし、ジョン・ピアソンによるボンドの架空の伝記、『ジェームズ・ボンド伝』で、誕生日は1920年11月11日と設定された[21]。 ボンド家の紋章
フレミングは最後から二番目の小説『007は二度死ぬ』でようやく、『タイムズ』に載ったというふれこみの架空の死亡記事を用いて、ボンドの家族にかかわる背景を描写した[22]。この本は、映画『ドクター・ノオ』が公開された後に最初に書かれたもので、 ショーン・コネリーのボンドの描写は、フレミングのキャラクターの解釈に影響を与えた[23]。小説ではボンドの両親は、スコットランド、グレンコー出身の父アンドルー・ボンドと、スイスのヴォー出身である母モニーク・ドラクロワであると明かされている[24]。
若き日のジェームズ・ボンドは、幼い頃は長期にわたって海外で過ごしており、父親がヴィッカースの軍事会社の代表として働いたため、ドイツ語とフランス語を話せるようになった。11歳のとき、シャモニー近くのエギュイユ・ルージュでの登山事故で両親が亡くなり、孤児になった[25]。 イートン・カレッジ :ボンドの母校で、2学期間過ごした。
両親の死後、ボンドはおばのミス・チャーミアン・ボンドと一緒に暮らすためペットボトムの村に行き、そこで初等教育を修了する。その後、「12歳くらいの時に」イートン・カレッジに一時的に通ったが、メイドと恋愛問題を起こし2半期後に退学する[22]。ボンドはイートンから放校になった後、父親の出身学校であるスコットランドのフェティス・カレッジに送られた[24]。16歳のときに初めてパリを訪れたボンドは、そこで初めて性体験をし、後に短編『薔薇と拳銃』で当時を回想している[26]。フレミングは自身の体験を基にしてキャラクターを作っており、ボンドはフレミングと同様にジュネーヴ大学に短期間通ったことをほのめかし[27]、後に短編『オクトパシー』で殺害されたハンネスオーバーハウザーによってキッツビューエルでスキーを教えてもらったことにしている[26][28]。