ジェームズ・ボンド_(架空の人物)
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小説の中では、ボンドはたいがい「暗い、かなり残酷な見た目[16]」を持った人物として言及されている。

小説(特に『ロシアから愛を込めて』)では、ボンドの身体的な描写は一般的に一貫している。右頬に3インチの長さの薄い垂直の傷跡、青灰色の目、「残酷な」口、短く黒い髪を有している。身長は183センチメートル、体重は76キログラムである[17]。『カジノ・ロワイヤル』で、スメルシのエージェントがロシアのキリル文字「Ш」(SH)をボンドの右手の後ろに刻む。次作の『死ぬのは奴らだ』の始まりまでに、ボンドは傷跡を隠すために植皮をした[18]
背景

フレミングによると、ジェームズ・ボンドの年齢は30代半ばから後半で、年はとらない[19]。『ムーンレーカー』では、彼は00セクションの規定定年年齢である45歳を8歳下回っていることを認めている。つまり、当時37歳だった[20]。その小説の脚注には、作中が1954年11月で、ボンドが1917年頃に誕生したと記されている。フレミングはボンドの誕生日を設定しなかった。しかし、ジョン・ピアソンによるボンドの架空の伝記、『ジェームズ・ボンド伝』で、誕生日は1920年11月11日と設定された[21]ボンド家の紋章

フレミングは最後から二番目の小説『007は二度死ぬ』でようやく、『タイムズ』に載ったというふれこみの架空の死亡記事を用いて、ボンドの家族にかかわる背景を描写した[22]。この本は、映画『ドクター・ノオ』が公開された後に最初に書かれたもので、 ショーン・コネリーのボンドの描写は、フレミングのキャラクターの解釈に影響を与えた[23]。小説ではボンドの両親は、スコットランド、グレンコー出身の父アンドルー・ボンドと、スイスヴォー出身である母モニーク・ドラクロワであると明かされている[24]

若き日のジェームズ・ボンドは、幼い頃は長期にわたって海外で過ごしており、父親がヴィッカースの軍事会社の代表として働いたため、ドイツ語とフランス語を話せるようになった。11歳のとき、シャモニー近くのエギュイユ・ルージュでの登山事故で両親が亡くなり、孤児になった[25]イートン・カレッジ :ボンドの母校で、2学期間過ごした。

両親の死後、ボンドはおばのミス・チャーミアン・ボンドと一緒に暮らすためペットボトムの村に行き、そこで初等教育を修了する。その後、「12歳くらいの時に」イートン・カレッジに一時的に通ったが、メイドと恋愛問題を起こし2半期後に退学する[22]。ボンドはイートンから放校になった後、父親の出身学校であるスコットランドのフェティス・カレッジに送られた[24]。16歳のときに初めてパリを訪れたボンドは、そこで初めて性体験をし、後に短編『薔薇と拳銃』で当時を回想している[26]。フレミングは自身の体験を基にしてキャラクターを作っており、ボンドはフレミングと同様にジュネーヴ大学に短期間通ったことをほのめかし[27]、後に短編『オクトパシー』で殺害されたハンネスオーバーハウザーによってキッツビューエルでスキーを教えてもらったことにしている[26][28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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