ジェームズ・ブラウン
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1950年代(ミスター・ダイナマイト)

ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコード[注 1]と契約を結ぶ。

シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ?」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」[注 2]は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェームズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。

これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、ルイ・ジョーダン、エイモス・ミルバーン、ワイノニー・ハリスらの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展し、Pファンク[注 3]、 スライ・ストーン、プリンスなどに強い影響を与えた。
1960年代(ファンク革命)

ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。

ライブ・アルバムが成功した後、ブラウンは最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「アウト・オブ・サイト・Out of Sight」を発表した[13] 。さらに「 Night Train」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。1967年ごろのJBsのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。

1960年代の主要メンバー

クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラムス

ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラムス

ティム・ドラモンド - ベース

バーナード・オーダム - ベース

メイシオ・パーカー - サックス

メルヴィン・パーカー - ドラムス

セントクレア・ピンクニー - サックス

ジミー・ノーレン - ギター

ナット・ケンドリック - ドラムス

ボビー・バード - ボーカル

イボンヌ・フェア - ボーカル

アナ・キング - ボーカル

1970年代(ファンキー・プレジデント)

1960年代末から1970年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「セックス・マシーン」「リッキン・スティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ[注 4]」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」などがある。1970年3月には、ジェームズ・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「JBズ The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。

1970-71年ごろの主要メンバー

クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラムス

ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラムス

ロバート・マッカロウ[注 5] - テナーサックス

フレッド・ウェズリー(Fred Wesley) - トロンボーン

セントクレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナーサックス

フェルプス・キャットフィッシュ・コリンズ(Phelps 'Catfish' Collins) - ギター

ハーロン・チーズ・マーティン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター

ウィリアム・コリンズ(William 'Bootsy' Collins) - ベース

ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション

ヴィッキー・アンダーソン(マイラ・バーンズ)(Vicki Anderson) - ボーカル

ダニー・レイ(Danny Ray) - MC

フレッド・ウェズリーが1975年に脱退するまでの4?5年間は、ポリドール時代のブラウンの充実期である。1972年から1974年までの主要メンバーは次の通り。

1972-74年ごろの主要メンバー

フレッド・トーマス(Fred Thomas) - ベース

フレッド・ウェズリーFred Wesley - トロンボーン/音楽監督

ジョン(ジャボ)・スタークス(John 'Jabo' Starks) - ドラマー

メイシオ・パーカー(Maceo Parker) - アルト・サックス ※1973年ごろ再加入

セント・クレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナー・サックス

スウィート・チャールズ・シェレル - ベースおよびキーボード

ジミー・ノーラン(Jimmy Nolen) - ギター ※1972年ごろ再加入

ハーロン・チーズ・マーチン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター

ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション

マーサ・ハイ(Martha 'High' Harvin) - バックボーカル

ダニー・レイ(Danny Ray) - MC

ボビー・バード(Bobby Byrd) - ボーカル、オルガン

リン・コリンズ(Lyn Collins) - ボーカル

1972年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。1973年・1974年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。1974年には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリ[注 6]と王者ジョージ・フォアマンが対戦し、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催したアフリカのウッドストックと宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『ソウル・パワー』で観ることができる。この時期、JBファンクの影響を受けたクール&ギャング、BTエクスプレス、オハイオ・プレイヤーズらファンクの新興勢力が登場し、ブラウンはやや押され気味になった。

その後、1975年ごろから起こった「ディスコ・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ディスコ・サウンドの中のファンキーな部分のオリジナルであるにもかかわらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。1976年の『Get Up Offa That Thing』や1977年の『Bodyheat』などのヒットもあるが、1970年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎えた。しかし1979年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。
1980年代(アイム・バック)

1980年、映画『ブルース・ブラザース』に出演。1984年、ヒップホップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を浴びた。1986年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画ロッキー4/炎の友情」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして1986年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに1988年には、フルフォースのプロデュースによる傑作「アイム・リアル」を発表した。ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパー、DJたちによって非常に多くサンプリングされた。

しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され実刑判決を受けた。
1990年代

1991年2月27日、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には 4-CD セットの "Star Time" を発表、この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。1991年6月10日には「ジェームズ・ブラウン リヴィング・イン・アメリカ ライブ」が開催された。出演者はアイスT、トーン・ロック、クール・モー・ディー、ヘビーD、アン・ヴォーグ、MCハマー、C&Cミュージック・ファクトリー、ベル・ビブ・デヴォー、クインシー・ジョーンズらだった。


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