七年戦争(1756年?1763年)において、クックは航海長として、英国軍艦Solebay号のロバート・クレイグ艦長の下で1759年のケベック包囲戦に加わった。既に測量及び海図作成の技量を認められていたクックは、セントローレンス川河口の測量と海図作成を任され、包囲戦の趨勢を決したウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大いに寄与した。
1760年代のクックは、ニューファンドランド島の入り組んだ海岸の測量に取り組んだ。夏季でも常に海霧に覆われ、強風が吹き、冬は極寒となるニューファンドランド島海域において、帆船で測量を行うのは至難かつ危険な仕事であった。クックは、1763年と1764年に北西部、1765年と1766年にブリン半島とレイ岬の間の南岸、1767年に西岸を測量した。クックの5年にわたる測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。
ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、クックは記した。「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」
七年戦争でのセントローレンス川河口海域測量、1760年代のニューファンドランド島海域測量での功績により、クックは英国海軍本部と英国王立協会の注目を受けることとなった。 1766年、王立協会はクックを金星の日面通過の観測を目的に南太平洋へ派遣した[3]。英国海軍航海長(士官待遇だが、公式の指揮権を有さない)の階級にあった38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官たる海尉に任官し[1]、英国軍艦エンデバー号の指揮官となった。もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、大きな積載量、強度、浅い喫水、どこを取っても、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。クックは1768年8月25日に英国南部のプリマスを出帆し[4]、マデイラ諸島とリオデジャネイロに寄港したのち南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し[5]、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチに1769年4月13日に到着した。日面通過は6月3日で、クックは小さな居館と観測所の建造を行った。 観測を担当したのは、王室天文官(グリニッジ天文台長)ネヴィル・マスケリンの助手、天文学者チャールズ・グリーンであった。観測の目的は、金星の太陽からの距離をより正確に算出するための測定であった。もしこれが成功すれば、軌道の計算に基づいて、他の惑星の太陽からの距離も算出できるはずであった。金星の日面通過の観測当日、クックはこう記している。「6月3日土曜日。本日は期待通り観測に好適な日和となり、雲一つなく、空気は完璧に澄んでおり、金星の日面通過の全経路の観測にはあらゆる好条件が備わっていた。金星を取り巻く大気あるいは薄暗い影があまりによく見えたので、金星と太陽の接触、とくに第2接触の時刻の観測がきわめて困難になってしまった。ソランダー博士とグリーンと私は同時に観測したが、それぞれが観測した接触時刻は思っていたよりもかなりずれていた」 しかし、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれ別に行った観測は誤差の期待範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。観測結果は別の場所で行なわれた結果と後に比較検討されたが、やはり期待したような正確な観測結果ではなかった。 天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての秘密指令を開封した。それは、海軍本部の追加命令に従って、伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス、Terra Australis)を求めて南太平洋を探索せよ、という指令であった。金星観測(しかもエンデバー号のような目立たない小さな艦で)を隠れ蓑にすれば、英国にとって今航海は、ライバルのヨーロッパ諸国を出し抜いて南方大陸を発見し伝説の富を手に入れる絶好の機会となろう、と王立協会は考えたのである。この説の特に熱心な信奉者が王立協会会員のアレクサンダー・ダリンプルであった。ニュージーランドのクック海峡 南太平洋の地理にきわめて詳しいトウパイア
第1回航海(1768年 - 1771年)赤は第1回航海、緑は第2回航海、青は第3回航海をあらわす。青の点線は、クック死後の航海ルートである
タヒチへ
タヒチからニュージーランドへ
ニュージーランドからオーストラリアへ