ジェームズ・アングルトン
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James Jesus Angleton

忠誠 アメリカ合衆国
所属中央情報局
アメリカ陸軍
階級防諜担当副次官
関与した作戦エニグマ解読
マンハッタン計画
CHAOS作戦
CHAOSプログラム
受賞Distinguished Intelligence Medal

誕生 (1917-12-09) 1917年12月9日
1987年5月12日(1987-05-12)(69歳)
国籍アメリカ合衆国
母校イェール大学
ハーヴァード・ロースクール

ジェームズ・ジーザス・アングルトン (James Jesus Angleton、1917年12月9日 - 1987年5月12日) は、アメリカ合衆国情報機関である中央情報局(CIA)の工作官。実業家。
人物

1954年から1975年までCIAで防諜部長を務めた。退官時の正式な職名は防諜担当副次官(Associate Deputy Director of Operations for Counterintelligence)。

CIA長官を務めたリチャード・ヘルムズはアングルトンについて、「当時、ジムは西側諸国のカウンターインテリジェンス(防諜)を代表する人物だった」と語っている。
経歴

アングルトンはアイダホ州ボイシでジェームズ・ヒューとカーマン・マーセデスの間に生まれた。ジェームズはアメリカ陸軍ジョン・パーシング将軍が率いた部隊の騎兵としてメキシコに駐在してた際にカーマンと出会った。ジェームズは後にNCR (企業)のイタリアにおけるフランチャイズを買い取り、米国商工会議所の会頭も務めた。

アングルトンは幼少期をイタリアのミラノで過ごした。イングランドパブリック・スクールを経てアメリカへ戻り1937年にイェール大学に進学した。

学部生時代にアングルトンは詩作に興味を持ち、リード・ウィットモアと文芸誌「Furioso」を創刊し編集を務めた。1953年まで続いたこの雑誌は当時流行していた小規模な同人的雑誌である「little magazines」の代表として成功を収め、エズラ・パウンドウィリアム・カルロス・ウィリアムズE・E・カミングズからの投稿も掲載されていた[1]。アングルトンはT・S・エリオットウィリアム・エンプソンとも文通していた。大学では当時確立された文芸批評の手法であるニュー・クリティシズムのトレーニングを受けた。アメリカ研究科を設立したノーマン・ホームズ・ピアソンもアングルトンの師だった。

1941年にイェール大学文学部英文科を卒業し、ハーバード・ロー・スクールを経て、1943年3月にアメリカ陸軍に入隊。

1943年7月にアリゾナ州ツーソン出身のヴァッサー大学卒業生シセリー・ド・ウォルトと結婚した[2]
OSS

1943年12月からOSSロンドン支局に駐在しX-2防諜部長のピアソンの下で働いた。この期間にキム・フィルビーと知りあっている。アングルトンは1944年2月にX-2のイタリア担当官になる。

1944年10月からローマ支局に駐在。イタリアでドイツの無線を傍受しウルトラ情報を扱う防諜ユニットZのリーダーとなった。

戦後もローマに残って他国の情報機関との関係を深め、1948年のイタリア総選挙ではキリスト教民主党を支援してイタリア共産党の勢力拡大を食い止めた。イタリアのマフィアファシストヴァチカン市国を巻き込んだ反共産主義活動の成功はアメリカ本国でCIAが設立されるきっかけの一つとなった[1][3]
CIA

ワシントンD.C.へ戻ったアングルトンはOSSの後継組織を経てCIAへ入局した。1949年5月に彼は特殊作戦部スタッフAのトップに任じられ国外情報の収集と他国の情報機関との連絡に当たることになった。1951年からはイスラエルモサッドやシンベト(公安庁)との関係が始まり、彼のキャリアを通して続くイスラエルとの関係が始まった。

アングルトンは新しく創設されたばかりのCIAの組織づくりに貢献する一方でフランク・ガーディナー・ウィズナーがアルバニアポーランドで行った共産主義政権の転覆工作にも関与した。イギリスの情報機関とは親密な関係を築き、秘密情報部のワシントン駐在部長であったキム・フィルビーとは頻繁に会合を持った。フィルビーの回想録にも名前が登場し、週1回は昼食を共にしていたという。1951年にフィルビーの同僚であるイギリスのガイ・バージェス(英語版)とドナルド・マクリーンソビエト連邦に亡命した。ヴェノナ情報からソビエト連邦情報機関の協力者である可能性が浮上したフィルビーはMI6を解雇された。

1954年にCIA長官のアレン・ダレスはアングルトンを防諜部長に任命した。他国情報機関との連絡役も引き続いてアングルトンに任された。イスラエル情報機関との関係は特に有益で、東側諸国からイスラエルに亡命したユダヤ人から得る情報や第三国での活動への協力などを得ることができた。ニキータ・フルシチョフが1955年におこなったスターリン批判演説についてもその原稿をイスラエルから提供されている。

ローマ駐在の経験からイタリアでの情報網もアングルトンの強みであり、さらに東南アジアカリブ海諸国の秘密警察の設立に関与[4]労働組合に対する工作では、AFL-CIO国際部長のジェイ・ラヴストーン(英語版)(以前アメリカ共産党で活動し党書記長も務めた)を通じて内外の情報網を駆使し反共右派勢力を支援、国際自由労働組合総連盟の結成に繋げた。

さらに、アングルトンはリンドン・B・ジョンソン大統領の命を受けてアメリカ国内における情報収集活動であるCHAOS作戦を立案し、ベトナム戦争への反戦運動市民運動へのソ連スパイの関与を調査した[5]国際郵便電報のチェックなど法律に違反する行為も行われており、現在では、それらの平和運動の中にはソ連の影響下にあったものもあるが、資金提供を受けていた例はなかったとされている。そもそも、CIAを設立した1947年国家安全保障法の明文規定で、CIAは防諜目的であっても国内スパイ活動は禁止されていたため、CHAOS作戦は違法行為であり、作戦の内部文書でも違法であることが明記されていた。

アングルトンの名声を高めたのは西側諸国の情報機関に存在するソ連の協力者を解明する仕事で、その任務は「もぐら狩り」(モールハント)と呼ばれていた。アングルトンは、親交があったフィルビーらイギリス情報機関の幹部が、ソ連の協力者であったことにショックを受け、西側諸国の情報機関にはソ連の協力者が存在すると仮定し対策を取るべきだとの持論に取り憑かれるようになった。

KGBからの亡命者であるアナトーリ・ゴリツィンの尋問によりアングルトンの懸念はさらに深まった。ゴリツィンは、イギリス労働党党首で首相を務めたハロルド・ウィルソンがソ連の協力者であると名指ししたり、ケネディ大統領暗殺事件はソ連が関与していると主張していたが、今日ではその供述の信頼性には問題があるとされている。


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