ジェームス・バリー
[Wikipedia|▼Menu]
アレクサンダーのアドバイスにより大学に行くことで譲歩したが、文学を専攻することにした[9]エディンバラ大学に進学し、学内紙に劇評を寄稿した。1882年4月21日、文学修士を得て卒業した[9]

姉妹が『スコッツマン』紙で求人情報を見つけ、バリーは『ノッティンガム・ジャーナル』紙のスタッフ・ジャーナリストとして1年半勤務した[9]。その後キリミュアに戻り、ロンドンの『セント・ジェームズ・ガゼット』紙に母が幼少期に育った町(仮名スラムズ)の物語を用いて寄稿した。スコットランドに関わるものを好む編集者により、バリーのこの物語はシリーズ化された[6]。これらはバリーの最初期の小説『オールド・リヒト物語』(1888年)、『スラムズの窓』(1890)、『小牧師』(1891年)の基となった[10]

『オールド・リヒト物語』にはバリーの祖父が所属していた敬虔な宗派について描かれている[9]。バリーの初期の作品について現代の文学批評家からは、スコットランドの町をセンチメンタルおよびノスタルジックに描いており、19世紀の工業化からはほど遠い菜園派風として軽んじられ好まれていない[11]。しかし当時これらの作品は人気があり、バリーは人気作家となった。その後バリーは自身の経験を描いた『Better Dead 』(1888年)を自費出版したが売上は上がらなかった[9]。少年と男性のファンタジーであり、ハッピーエンドではないトミー・シリーズ『センチメンタル・トミー』(1896年)、『トミーとグリゼル』(1900年)が出版された。

バリーは舞台への興味を深め、詩人リチャード・サヴェイジの伝記を基にHBマリオット・ワトソンと共に脚本を執筆したが、1度上演したのみで批評家に酷評され閉幕した[9]。その直後、ヘンリック・イプセンの『ヘッダ・ガーブレル』および『幽霊』をパロディ化した『イプセンの幽霊』(1891年)を執筆した[9]。1914年までイギリスでは『幽霊』は権利化されていなかったが、当時クラブの出し物としてセンセーションを巻き起こした[12]

ロンドンにあるトゥールズ・シアターにて『イプセンの幽霊』が上演された際、イプセンの作品を英語に翻訳していたウィリアム・アーチャーが観劇した。アーチャーはこのパロディのユーモアを気に入り、他者に推薦した。バリーの劇作3作目『Walker, London 』(1892年)のために若い女優メアリー・アンセルが紹介された。 1894年7月9日、2人は結婚した。バリーはセント・バーナードの子犬をアンセルに買い与え、のちに『小さな白い鳥』に登場することとなった。以降、妻の名「メアリー」はバリーの小説に多く使用された[9]インプレサリオであるリチャード・ドイリー・カートのためにコミック・オペラ『ジェーン・アニー』(1893年)を執筆したが公演はうまくいかず、友人のアーサー・コナン・ドイルに改訂を依頼した。

1901年から1902年、立て続けにヒット作を生み出した。戦地から戻ったかつての求婚者を若い姪と取り合うオールド・ミスを描いた『クオリティ通り』がヒットした。その後、貴族の家族と使用人たちが難破して無人島に辿り着くと立場が逆転する『あっぱれクライトン』は精巧な演出により批評家に称賛された。

1902年、ホダー&スタウトンによりイギリス国内で出版された小説『小さな白い鳥』にピーター・パンが初登場し、同年アメリカで『スクリブナーズ・マガジン』で連載された[13]。1904年12月27日、バリーの最も有名で長年続くヒット作となる『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』が初演された[14]。ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの娘マーガレットはバリーを「フレンド」の変形である「フレンディ」と呼んでいたが「R」がうまく発音できず「フウェンディ」と聞こえることから着想を得て、登場人物に「ウェンディ」と名付けた。ビクトリア朝後期およびエドワード朝の中流家庭を表す、社会的制約のあるブルームスベリーの町はネバーランドと比較して道徳観で相反していた。ジョージ・バーナード・ショーは作品に潜む隠喩の存在を示唆し、「一見、子供向けのクリスマス演劇のようだが、実際は大人向けである」と評価した。

『ピーター・パン』の上演以降、バリーは舞台においてヒット作を出し続けたが、その多くは自身の信念を基に社会問題を扱っていた。『十二磅の目つき』(1921年)では離婚した妻が同僚となり収入を得ていく姿を描いた。『メアリ・ロウズ』(1920年)、『おい、ブルータス』(1917年)などでは年を取らない子供やパラレルワールドを再び扱った。

1909年から1911年、ほかの多くの脚本家たちと共に侍従長局による検閲に反対しようと試みていた[15]

1911年、小説『ピーター・パンとウェンディ』でピーター・パンの物語を発展させた。1929年4月、バリーはピーター・パン関連作品の著作権をロンドン最大の子供病院であるグレート・オーモンド・ストリート子供病院に寄贈した。

最後の戯曲『少年ダビデ』(1936年)で聖書のサウル王と若いダビデの物語を描いた。ピーター・パン役と同様、ダビデ役は女性が演じていた。バリーは女優エリザベート・ベルクナーのためにこの作品を執筆した[16]
交友関係1895年頃

バリーは文芸サークルに参加し、共著者以外にも多くの著名な友人がいた。小説家ジョージ・メレディスは初期のパトロンであった。当時サモアに住んでいた同じスコットランド人のロバート・ルイス・スティーヴンソンと長い間文通していたが一度も会うことはなかった。数年間、ジョージ・バーナード・ショーとロンドンで近所に住み、バリーの脚本および撮影に1度だけ参加したことがある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:97 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef