母親は彼をテキサス州ワクサハチーにある神学校Southwestern Assemblies of God University に入学させ、聖歌隊でしか歌えなくなった。しかし『My God Is Real 』をブギウギ調で大胆に演奏した。生徒会長であったピアリー・グリーンは、彼がタレント・ショーで「世俗的な」音楽を演奏したと語った。翌朝学部長はジェリー・リー・ルイスとグリーンを呼び出し、彼らを退学させた。ルイスは「(グリーンは)俺が何を演奏するか知らなかった」ため退学させられるべきではなかったと語った。
この出来事の後、実家に帰りフェリデイ周辺およびミシシッピ州ナッチェスのクラブで演奏し始め、急成長中の新しいロックンロールに傾倒し、1954年に初めてのデモテープを録音した。1955年頃、テネシー州ナッシュビルのクラブで演奏して注目を集めようと考えたが、ルイジアナ州シュリーブポートのカントリー・チャンネルのルイジアナ・ヘイライドでかつて見た『グランド・オール・オープリー』に却下された。ナッシュビルのレコード会社の重役はピアノではなくギターを演奏したらどうかと提案した。
1956年11月、サン・レコードのオーディションを受けるためにテネシー州メンフィスに向かった。サン・レコードのオーナーのサム・フィリップスはフロリダ州にいたため会えなかったが、プロデューサー兼エンジニアのジャック・クレメントがルイスが歌うレイ・プライスの『Crazy Arms 』とルイス作の『End of The Road 』をレコーディングした。同年12月、サン・レコード所属のカール・パーキンスやジョニー・キャッシュと同様、ソロとしてだけでなくスタジオ・ミュージシャンとしても多くのレコーディングに参加した。1956年終盤から1957年初頭まで、パーキンスの『マッチボックス』、『Your True Love 』、『You Can Do No Wrong 』、『Put Your Cat Clothes On 』、ビリー・リー・ライリーの『Flyin' Saucers Rock'n'Roll 』などサン・レコード出版のレコードで彼の独特のピアノを聴くことができる。それまではロカビリーでピアノを前面に出すことはなかったが、彼の影響で他のレコード会社もロカビリーにピアノ奏者を取り入れるようになった。
1956年12月4日、ルイスのピアノ演奏でパーキンスが新曲のレコーディングをするためにサン・レコードにいた時に、エルヴィス・プレスリーがフィリップスに会いにサン・レコードに立ち寄った。キャッシュもパーキンスのレコーディングを見るためその場にいた。4人は即興でジャム・セッションを始め、フィリップスはそれを録音した[9]。この時演奏された曲の約半数がゴスペル曲や伝統曲であった。このセッションは後に『ミリオン・ダラー・カルテット』のタイトルでCDとして出版された。収録曲にはプレスリーの『Don't Be Cruel 』、『Paralyzed 』、チャック・ベリーの『Brown Eyed Handsome Man 』、パット・ブーンの『Don't Forbid Me 』の他、プレスリーが自身の物真似をするジャッキー・ウィルソンの『Don't Be Cruel 』を真似する様子も含まれている。
1957年、『Whole Lotta Shakin' Goin' On [10]』、彼の最大のヒット曲『火の玉ロック[11]』(73年にミッシェル・ポルナレフがカバー)で一躍スターダムにのし上がり世界的に有名になったが、その一方で歌詞の刺激が強過ぎるとしてラジオ局でボイコットされることもあった。2005年、『Whole Lotta Shakin' Goin' On 』はアメリカ議会図書館のNational Recording Registry に永久保存されることとなった。
キリスト教を信じるキャッシュやルイスは、自身が罪であると考え、自分およびファンは地獄に落ちると固く信じていた[12]。このルイスのキャラクターはキャッシュの自伝を基に作られた2005年の映画『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でウェイロン・ペインにより演じられた。
演奏中、ピアノの椅子を蹴ったり、立ったままピアノを弾いたり、叩くように劇的なアクセントをつけて弾いたり、鍵盤の上に座ったり、楽器の上に立ったりした。ラジオ・ドキュメンタリー『Pop Chronicles 』でルイスは、椅子を蹴ったのは最初は偶然だったが、反応が良かったため続けたと語った[9]。1957年7月28日、『The Steve Allen Show 』でテレビ初登場し、『Whole Lotta Shakin' Goin' On 』を演奏中に上記のアクションを行なった[13][14]。