ジェリー・リー・ルイス
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『To Make Love Sweeter For You 』、『There Must Be More to Love Than This 』、『Would You Take Another Chance on Me 』、『ミー・アンド・ボビー・マギー[注 2]などの曲がカントリー・チャートで第1位を獲得した。

ルイスの成功は約10年続き、ザ・ビッグ・ボッパーの『Chantilly Lace 』や『Rockin' My Life Away 』のカヴァーなどを含む過去のロックの曲もヒットした。21世紀に入り、ルイスはコンサート・ツアーで世界をまわり、新しいアルバムも発表している。2006年のアルバム『Last Man Standing 』は世界中で100万枚以上を売り上げ、彼のアルバム売り上げ記録を更新した。2010年のアルバム『Mean Old Man 』はルイスのアルバムの中でも高い売り上げの1つとなった。

ルイスはロックとカントリー双方合わせて10回以上ゴールド・ディスクの認定を受け、特別功労賞を含み何度かグラミー賞も受賞している。1986年、ロックの殿堂入りし、このジャンルへの彼の貢献はロカビリーの殿堂でも確認することができる。1989年、デニス・クエイド主演の映画『Great Balls of Fire! 』で半生が描かれた。2003年、『ローリング・ストーン』誌はボックス・セット『All Killer, No Filler: The Anthology 』を「Rolling Stone's 500 Greatest Albums of All Time 」の第242位にランク付けした[4]。2004年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第24位にランク付けした[5]。また「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第67位にランク付けした[6]
経歴

ルイジアナ州東部コンコルディア郡フェリディの貧困家庭に生まれた。いとこで後にカントリー歌手となるMickey Gilley 、テレビ伝道者となるJimmy Swaggart と共に幼少からピアノを始めた。両親は彼にピアノを買うため農場を担保に借金した。成長する上でMoon Mullican から多大な影響を受けると同時に[7]、年上のいとこのCarl McVoy (後にBill Black's Combo に参加)、ラジオ、近所の黒人向け酒場ヘイニーズ・ビッグ・ハウスから流れてくる音からも影響を受けた[8]

母親は彼をテキサス州ワクサハチーにある神学校Southwestern Assemblies of God University に入学させ、聖歌隊でしか歌えなくなった。しかし『My God Is Real 』をブギウギ調で大胆に演奏した。生徒会長であったピアリー・グリーンは、彼がタレント・ショーで「世俗的な」音楽を演奏したと語った。翌朝学部長はジェリー・リー・ルイスとグリーンを呼び出し、彼らを退学させた。ルイスは「(グリーンは)俺が何を演奏するか知らなかった」ため退学させられるべきではなかったと語った。

この出来事の後、実家に帰りフェリデイ周辺およびミシシッピ州ナッチェスのクラブで演奏し始め、急成長中の新しいロックンロールに傾倒し、1954年に初めてのデモテープを録音した。1955年頃、テネシー州ナッシュビルのクラブで演奏して注目を集めようと考えたが、ルイジアナ州シュリーブポートのカントリー・チャンネルのルイジアナ・ヘイライドでかつて見た『グランド・オール・オープリー』に却下された。ナッシュビルのレコード会社の重役はピアノではなくギターを演奏したらどうかと提案した。

1956年11月、サン・レコードのオーディションを受けるためにテネシー州メンフィスに向かった。サン・レコードのオーナーのサム・フィリップスフロリダ州にいたため会えなかったが、プロデューサー兼エンジニアのジャック・クレメントがルイスが歌うレイ・プライスの『Crazy Arms 』とルイス作の『End of The Road 』をレコーディングした。同年12月、サン・レコード所属のカール・パーキンスジョニー・キャッシュと同様、ソロとしてだけでなくスタジオ・ミュージシャンとしても多くのレコーディングに参加した。1956年終盤から1957年初頭まで、パーキンスの『マッチボックス』、『Your True Love 』、『You Can Do No Wrong 』、『Put Your Cat Clothes On 』、ビリー・リー・ライリーの『Flyin' Saucers Rock'n'Roll 』などサン・レコード出版のレコードで彼の独特のピアノを聴くことができる。それまではロカビリーでピアノを前面に出すことはなかったが、彼の影響で他のレコード会社もロカビリーにピアノ奏者を取り入れるようになった。

1956年12月4日、ルイスのピアノ演奏でパーキンスが新曲のレコーディングをするためにサン・レコードにいた時に、エルヴィス・プレスリーがフィリップスに会いにサン・レコードに立ち寄った。キャッシュもパーキンスのレコーディングを見るためその場にいた。4人は即興でジャム・セッションを始め、フィリップスはそれを録音した[9]。この時演奏された曲の約半数がゴスペル曲や伝統曲であった。このセッションは後に『ミリオン・ダラー・カルテット』のタイトルでCDとして出版された。収録曲にはプレスリーの『Don't Be Cruel 』、『Paralyzed 』、チャック・ベリーの『Brown Eyed Handsome Man 』、パット・ブーンの『Don't Forbid Me 』の他、プレスリーが自身の物真似をするジャッキー・ウィルソンの『Don't Be Cruel 』を真似する様子も含まれている。


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