キリスト教を信じるキャッシュやルイスは、自身が罪であると考え、自分およびファンは地獄に落ちると固く信じていた[12]。このルイスのキャラクターはキャッシュの自伝を基に作られた2005年の映画『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でウェイロン・ペインにより演じられた。
演奏中、ピアノの椅子を蹴ったり、立ったままピアノを弾いたり、叩くように劇的なアクセントをつけて弾いたり、鍵盤の上に座ったり、楽器の上に立ったりした。ラジオ・ドキュメンタリー『Pop Chronicles 』でルイスは、椅子を蹴ったのは最初は偶然だったが、反応が良かったため続けたと語った[9]。1957年7月28日、『The Steve Allen Show 』でテレビ初登場し、『Whole Lotta Shakin' Goin' On 』を演奏中に上記のアクションを行なった[13][14]。ライヴの最後にピアノに火をつけたと世間には認知されているが、これについてルイスは『エスクァイア』オンライン版で「俺はピアノに火をつけた事はないよ。ずっと否定したかったんだけどさ」と語った。
彼のダイナミックな演奏は映画『High School Confidential 』(タイトル曲をトラックの荷台で歌っている)や『Jamboree 』で観ることができる。彼は「ロックンロール初のワイルドな男」、「ロックンロール初の折衷主義者」と呼ばれている[15]。クラシック作曲家のマイケル・ナイマンはルイスについて、新たな美的感覚を開花させてくれたと語った[16]。
1958年5月、イギリスツアーに出た折、唯一ロンドン・ヒースロー空港に取材に来ていた通信社のリポーターであるレイ・ベリーに、ルイスが3人目の妻としてマイラ・ゲイル・ブラウンと結婚していたことを知られてしまった。彼女はルイスの父方のいとこの子であり[17][18]、まだ13歳であった。ブラウン、ルイス、マネージャーは彼女を15歳だとごまかしていた。ルイスはこの時22歳。マスコミが大騒ぎしたため、3回公演したのみで打ち切りとなった。
ルイスがアメリカに戻ってもスキャンダルは打ち消せず、ラジオ局のブラックリストに載った。ルイスはこれまで自分をサポートしてくれた多くの人々に裏切られたように感じていた。ディック・クラークは番組から彼を降板させた。サン・レコード社長がジャック・クレメントとの偽のインタビュー『The Return of Jerry Lee 』を発表し、婚姻問題、批判を軽視した「答え」としてルイスの曲の一部を引用したためルイスはサム・フィリップスにも裏切られたと感じていた。唯一ディスクジョッキーのアラン・フリードだけがルイスの味方のままであり、賄賂容疑で降板するまで彼のレコードをかけ続けた。
それでもサン・レコードとの契約はそのままで、レコーディングおよび定期的なシングル発表は続けていた。それまで1万ドルのコンサートを行なっていたが、それ以降バーや小さなクラブに250ドルで出演するようになった。その頃、信頼できる友人は数少なかった。
かつてB.B.キング、ハウリン・ウルフ、プレスリー、ロイ・オービソン、パーキンス、ルイス、キャッシュなどがレコーディングしたユニオン通りのスタジオが古くなったため、フィリップスはメンフィスのマディソン通り639番地に新しい最高水準のスタジオを建て、ナッシュビルにもスタジオをオープンした。1961年、ルイスはナッシュビルのスタジオでレイ・チャールズの『What'd I Say 』をレコーディングし、大ヒットした。ヨーロッパでは1962年9月に『Sweet Little Sixteen 』、1963年3月に『Good Golly Miss Molly 』が立て続けにヒットした。コンパクト盤の『Hang Up My Rock and Roll Shoes 』、『I've Been Twistin' 』、『Money 』、『Hello Josephine 』などが特に初期のディスコで流れるようになった。グレン・ミラー・オーケストラの名曲『イン・ザ・ムード』をインストゥルメンタルのブギ調にアレンジした曲を「ザ・ホーク」という偽名でフィリップス・インターナショナルから発表したが、ディスクジョッキーはその独特のピアノ演奏によりすぐにそれがルイスだと見破り、この策略は失敗した。
1963年、サン・レコードとの契約が満了し、スマッシュ・レコードに移籍して多くのロックの曲をレコーディングしたが大きなヒットにはならなかった。
1960年代中盤には、イギリスやドイツでルイスは注目されるようになった。1964年、ザ・ナッシュヴィル・ティーンズと共に収録したライヴ・アルバム『Live at the Star Club, Hamburg 』が史上最も優れたロックンロールのライヴ・アルバムの1つと考えられるようになった[19][20][21][22][23]。音楽評論家のスティーブン・トーマス・アールワインは「これまでのレコードの中でも『Live at the Star Club 』は桁外れで斬新でハードなロックンロールだ」と記した[23]。
1960年代、マーキュリー・レコードの子会社であるスマッシュ・レコード在籍中の4年間、ロックでの再起に行き詰まり、カントリーのバラードを演奏するようになった。
1965年、カントリーに重きを置いたアルバム『Country Songs for City Folks 』をレコーディングした。1968年、シングル『Another Place, Another Time 』がトップ10にランクインし、これを機に、カントリー・チャートで第1位となった『To Make Love Sweeter For You 』を含み数々の曲がトップ10にランクインするようになった。