ジェリー・リー・ルイス
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1957年、『Whole Lotta Shakin' Goin' On [10]』、彼の最大のヒット曲『火の玉ロック[11]』(73年にミッシェル・ポルナレフがカバー)で一躍スターダムにのし上がり世界的に有名になったが、その一方で歌詞の刺激が強過ぎるとしてラジオ局でボイコットされることもあった。2005年、『Whole Lotta Shakin' Goin' On 』はアメリカ議会図書館のNational Recording Registry に永久保存されることとなった。

キリスト教を信じるキャッシュやルイスは、自身が罪であると考え、自分およびファンは地獄に落ちると固く信じていた[12]。このルイスのキャラクターはキャッシュの自伝を基に作られた2005年の映画『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でウェイロン・ペインにより演じられた。

演奏中、ピアノの椅子を蹴ったり、立ったままピアノを弾いたり、叩くように劇的なアクセントをつけて弾いたり、鍵盤の上に座ったり、楽器の上に立ったりした。ラジオ・ドキュメンタリー『Pop Chronicles 』でルイスは、椅子を蹴ったのは最初は偶然だったが、反応が良かったため続けたと語った[9]。1957年7月28日、『The Steve Allen Show 』でテレビ初登場し、『Whole Lotta Shakin' Goin' On 』を演奏中に上記のアクションを行なった[13][14]。ライヴの最後にピアノに火をつけたと世間には認知されているが、これについてルイスは『エスクァイア』オンライン版で「俺はピアノに火をつけた事はないよ。ずっと否定したかったんだけどさ」と語った。

彼のダイナミックな演奏は映画『High School Confidential 』(タイトル曲をトラックの荷台で歌っている)や『Jamboree 』で観ることができる。彼は「ロックンロール初のワイルドな男」、「ロックンロール初の折衷主義者」と呼ばれている[15]。クラシック作曲家のマイケル・ナイマンはルイスについて、新たな美的感覚を開花させてくれたと語った[16]

1958年5月、イギリスツアーに出た折、唯一ロンドン・ヒースロー空港に取材に来ていた通信社のリポーターであるレイ・ベリーに、ルイスが3人目の妻としてマイラ・ゲイル・ブラウンと結婚していたことを知られてしまった。彼女はルイスの父方のいとこの子であり[17][18]、まだ13歳であった。ブラウン、ルイス、マネージャーは彼女を15歳だとごまかしていた。ルイスはこの時22歳。マスコミが大騒ぎしたため、3回公演したのみで打ち切りとなった。

ルイスがアメリカに戻ってもスキャンダルは打ち消せず、ラジオ局のブラックリストに載った。ルイスはこれまで自分をサポートしてくれた多くの人々に裏切られたように感じていた。ディック・クラークは番組から彼を降板させた。サン・レコード社長がジャック・クレメントとの偽のインタビュー『The Return of Jerry Lee 』を発表し、婚姻問題、批判を軽視した「答え」としてルイスの曲の一部を引用したためルイスはサム・フィリップスにも裏切られたと感じていた。唯一ディスクジョッキーアラン・フリードだけがルイスの味方のままであり、賄賂容疑で降板するまで彼のレコードをかけ続けた。

それでもサン・レコードとの契約はそのままで、レコーディングおよび定期的なシングル発表は続けていた。それまで1万ドルのコンサートを行なっていたが、それ以降バーや小さなクラブに250ドルで出演するようになった。その頃、信頼できる友人は数少なかった。

かつてB.B.キングハウリン・ウルフ、プレスリー、ロイ・オービソン、パーキンス、ルイス、キャッシュなどがレコーディングしたユニオン通りのスタジオが古くなったため、フィリップスはメンフィスのマディソン通り639番地に新しい最高水準のスタジオを建て、ナッシュビルにもスタジオをオープンした。1961年、ルイスはナッシュビルのスタジオでレイ・チャールズの『What'd I Say 』をレコーディングし、大ヒットした。ヨーロッパでは1962年9月に『Sweet Little Sixteen 』、1963年3月に『Good Golly Miss Molly 』が立て続けにヒットした。コンパクト盤の『Hang Up My Rock and Roll Shoes 』、『I've Been Twistin' 』、『Money 』、『Hello Josephine 』などが特に初期のディスコで流れるようになった。グレン・ミラー・オーケストラの名曲『イン・ザ・ムード』をインストゥルメンタルのブギ調にアレンジした曲を「ザ・ホーク」という偽名でフィリップス・インターナショナルから発表したが、ディスクジョッキーはその独特のピアノ演奏によりすぐにそれがルイスだと見破り、この策略は失敗した。

1963年、サン・レコードとの契約が満了し、スマッシュ・レコードに移籍して多くのロックの曲をレコーディングしたが大きなヒットにはならなかった。

1960年代中盤には、イギリスやドイツでルイスは注目されるようになった。1964年、ザ・ナッシュヴィル・ティーンズと共に収録したライヴ・アルバム『Live at the Star Club, Hamburg 』が史上最も優れたロックンロールのライヴ・アルバムの1つと考えられるようになった[19][20][21][22][23]。音楽評論家のスティーブン・トーマス・アールワインは「これまでのレコードの中でも『Live at the Star Club 』は桁外れで斬新でハードなロックンロールだ」と記した[23]

1960年代、マーキュリー・レコードの子会社であるスマッシュ・レコード在籍中の4年間、ロックでの再起に行き詰まり、カントリーのバラードを演奏するようになった。

1965年、カントリーに重きを置いたアルバム『Country Songs for City Folks 』をレコーディングした。1968年、シングル『Another Place, Another Time 』がトップ10にランクインし、これを機に、カントリー・チャートで第1位となった『To Make Love Sweeter For You 』を含み数々の曲がトップ10にランクインするようになった。


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