ジェラルド・R・フォード
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副大統領職「1973年アメリカ合衆国副大統領承認」も参照

1973年、州知事時代の収賄罪が確定したことを受けてスピロ・アグニュー副大統領が辞職すると、同年10月10日ニクソン大統領はフォードを副大統領に指名した。その後、上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。これはケネディ大統領暗殺を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第25条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった(大統領による任期半ばでの新副大統領指名はこのフォードと、後にフォード自身が指名することになるネルソン・ロックフェラーの2例があるのみである)。
大統領職大統領としてのポートレートブレジネフとウラジオストクで会談を行うフォードSALT I に調印するフォードとブレジネフ初訪米した昭和天皇香淳皇后夫妻をエスコートするフォード夫妻ホワイトハウスのスタッフと
左からディック・チェイニー大統領首席補佐官、ドナルド・ラムズフェルド国防長官

ニクソンがウォーターゲート事件の結果辞職すると、フォードは大統領に昇格、「私たちの長い悪夢は終わった(Our long national nightmare is over.)」という有名な言葉を残した。同年9月8日、フォードは、ニクソンの訴追前の段階で「前大統領は十分に苦しみを受けた」として大統領特別恩赦を発表。フォードは寛容さをアピールしたが[3]一方で、裁判が行われなくなったことにより事件の詳細は解明されないままとなった。歴史家はこの恩赦が1976年の大統領選挙での敗北につながったと見ている。政治評論家は1976年秋、10月6日の2回目のテレビ討論での失言が大統領選の敗北につながったと見ており、世論調査専門家のジョージ・ギャラップは「選挙戦の決定的瞬間」と述べた。

ウォーターゲート事件の影響で、1974年中間選挙では民主党が上下両院で大幅に議席を増やし、立法府行政府のねじれが生じた。フォードは民主党多数議会が可決した多くの法案に拒否権を行使して争った。

フォードは、さらにマヤグエース号事件で外交危機に直面した。1975年5月に、クメール・ルージュカンボジアで政権をとった直後、カンボジア領海でクメール・ルージュ軍が、アメリカ国商船マヤグエース号(SS Mayaguez 乗員37名)を拿捕した。フォードは乗組員救出のために海兵隊を派遣したが、救助の海兵隊員は誤った島に上陸して抵抗を受け、18名の隊員の命が失われた。

1975年9月5日カリフォルニア州サクラメントで、アナーキストチャールズ・マンソンの信奉者リネット・スキーキー・フロム(英語版)がフォードに銃を向けたが、シークレット・サービスによって暗殺は防がれた。その17日後の9月22日に、サラ・ジェーン・ムーアサンフランシスコでフォードに発砲したが、銃撃はオリヴァー・シップル(英語版)によって妨がれた。「フォード大統領暗殺未遂事件 (サクラメント)(英語版)」および「フォード大統領暗殺未遂事件 (サンフランシスコ)」を参照

また、1974年11月18日に現職のアメリカ大統領として初めて日本を公式訪問し、昭和天皇と会見した。また1975年には天皇として初訪米した昭和天皇を迎えている。

1976年2月19日には、第二次大戦中の日系人の強制収容を招いた大統領令9066号を廃止した[4]。この日は奇しくも、34年前の1942年にフランクリン・ルーズベルト大統領によって同大統領令に署名がされた日だった。

なお、ニクソン前政権と同様に1975年に中華人民共和国を訪問して毛沢東と会見し[5]、引き続き中国との関係正常化にも努めた。
合衆国大統領顧問団

職名氏名任期
大統領ジェラルド・フォード1974年 - 1977年
副大統領ネルソン・ロックフェラー1974年 - 1977年
国務長官ヘンリー・キッシンジャー1974年 - 1977年
財務長官ウィリアム・E・サイモン1974年 - 1977年
国防長官ジェームズ・R・シュレシンジャー1974年 - 1975年
ドナルド・ラムズフェルド1975年 - 1977年
司法長官ウィリアム・サクスビー(英語版)1974年 - 1975年
エドワード・レヴィ(英語版)1975年 - 1977年
内務長官ロジャーズ・モートン(英語版)1974年 - 1975年
スタンリー・ナップ・ハサウェイ(英語版)1975年
トーマス・サヴィグ・クレピー(英語版)1975年 - 1977年
農務長官アール・ラウアー・バッツ1974年 - 1976年
ジョン・アルバート・ネブル1976年 - 1977年
商務長官フレデリック・ベイリー・デント(英語版)1974年 - 1975年
ロジャーズ・モートン(英語版)1975年
エリオット・リチャードソン1975年 - 1977年
労働長官ピーター・ジョセフ・ブレナン(英語版)1974年 - 1975年
ジョン・トーマス・ダンロップ(英語版)1975年 - 1976年
ウィリアム・アーゼリー・ジュニア(英語版)1976年 - 1977年
保健教育福祉長官キャスパー・ワインバーガー1974年 - 1975年
フォレスト・デイヴィッド・マシューズ1975年 - 1977年
住宅都市開発長官ジェイムズ・トマス・リン1974年 - 1975年
カーラ・アンダーソン・ヒルズ1975年 - 1977年
運輸長官クロード・ブリンガー(英語版)1974年 - 1975年
ウィリアム・タデウス・コールマン・ジュニア(英語版)1975年 - 1977年

評価

政治家としてのフォードは清廉潔白で、個人的にも素朴で誠実な人柄であった。自分を評して「私はフォード(フォード・モデルT)であって、リンカーンフォード・モーターの高級車ブランド)ではない」とも語っている。そうした彼の姿は、大統領としての能力はともかく、ウォーターゲート事件で失墜したホワイトハウスへの信頼の回復には大きく役立った。


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