第3世の在位中、ジェプツンタンパの移動教団イヘ・フレーでは組織の整備や仏殿、学堂の整備などが進んだが、3世自身はなんらなすことのないまま、1773年夭折した。 乾隆帝は3世夭折の報を受けると、夢の中に3世が姿を現し、「故郷のチベットにかえる」と告げた後、西方に向け急ぎ去ったと述べ、ジェプツンタンパがチベットに生誕するという伝統の確立を図った[7]。
「夢」によりチベット出身の伝統確立を目指す
脚注^ 札奇斯欽, 1978, p.646
^ 乾隆31年、里塘宣撫司の「宣撫使」職を受けている。 ?蔭, 1992, p.324
^ 札奇斯欽, 1978, p.647
^ 岡、1992年、p.4
^ 岡、1992年、pp.4-5
^ 札奇斯欽, 1978, p.649
^ 橋本, 1942, p.124
参考文献
札奇斯欽「蒙古政教領袖、哲布尊丹巴與西藏之関係」『蒙古與西藏歴史關係之研究』正中書局、1978年、ISBN 957-09-0358-9、第18章 pp.609-670
橋本光寳「蒙古の二大喇嘛 第一節 哲布尊丹呼圖克圖」『蒙古の喇嘛教』佛教公論社、1942年、第四章 pp.113-121
岡洋樹
関連項目
ジェプツンタンパ1世 ロブサン・ダンビジャンツァン(ロサン・テンペーゲンツェン)、ザナバザル、ジニャーナバジュラ (1635年 - 1723年)
ジェプツンタンパ2世 ロブサン・ダンビトゥンミ(ロサン・テンペートンメ) (1724年 - 1757年)
ジェプツンタンパ4世 ロブサン・トゥブダンワンチュク(ロサントゥブテンワンチュク・ジグメギャムツォ)
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