ジェファーソン・デイヴィス
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統率面でも歴史学者ベル・I・ウィレー(英語版)によれば、デイヴィスの性格や気質は国家指導者として不利に働いたと評されている[2]。デイヴィスはどんな細事でも自らの手で決裁することを望み、極端に委任を拒む彼の行動はしばしば各部門の責任者との衝突を生んだ。またお世辞にも柔和とは言い難く、むしろ神経質な人嫌いであったデイヴィスは民衆からの人気も今ひとつであり、本人も国民に好かれようと努力しなかった。気難しい性格は人事面にも悪影響を与え、自らの好悪感情より能力の有無を優先するという冷静な判断に欠けていた。

敗戦後の1865年5月10日、デイヴィスは戦犯として合衆国政府に拘束されて国家反逆罪に問われ、有罪にはならなかったものの公職就任の資格を剥奪された[3]。先述の通り、デイヴィスは民衆と距離を置いた指導者であったため、連合国国民の愛国心は主に南部連合軍総司令官ロバート・E・リーに集まる傾向が見られた。しかし戦後に開始された合衆国によるレコンストラクション(南部占領統治)への反対など、南部に殉じ続けるデイヴィスの姿は旧連合国住民から強い尊敬を集め、唯一にして最後の「連合国大統領」はかつての国民から敬愛される存在となった。今日、デイヴィスは南部独立に生涯を費やした人物として、それを押し留めようとした北軍に立ち向かったリーと並び、南部人から最も尊敬される偉人となっているが[4]、奴隷制度を容認していたとみなされており、2020年5月に発生した白人警官による黒人男性の暴行死事件ジョージ・フロイド抗議運動では南部連合の首都だったリッチモンドにあったデイヴィス像がデモ隊によって引き倒された[5]
バチカンとの関係

近年、バチカン市国のアーカイブより、1863年にリンカーン大統領がローマ教皇ピウス9世に送った手紙が発見されている。手紙は公式なもので、彼のサインが手紙とは別色のインクでなされているところから、彼の秘書に口述して書かれた物と判断される。書かれた時期は南北戦争の真っ最中で、南軍が北部に侵入し、25万人もの死者が出ているにもかかわらず、全くの外交的内容で、残酷な戦争に関しては一切触れていない。同時期に、南部(連合国)のデイヴィスもピウス9世に手紙を書いている。デイヴィスの手紙はリンカーンの手紙とは全く逆なもので、自分で書いた個人的なもので、戦争の悲惨さを訴え、罪もない市民が殺されていく現状を鮮明に書きあらわしたものである。彼の手紙の意図は、ローマ法王に南部を国家として認めて貰おうとしたことと考えられる。驚いたことに、数か月後にローマ教皇はデイヴィスを『Presidi Foederatarum Americae Regionum』即ち、『アメリカ連合国大統領』と呼び、返事を送っているので、ローマ教皇が南部を国家として認めたものと受け取って良い。これは、ワシントン(合衆国政府)とバチカンとの間に外交上の問題が生じることを示している。

ただし、バチカンの膨大なアーカイブの中から今までに発見された手紙はこの2通のみなので、それ以上の詳細は不明であるが、この2通の手紙は、リンカーンとデイヴィスの人柄を語っている。なお、バチカンのアーカイブはナポレオンによって全て略奪され、パリに移動されたことがあり、ナポレオン失脚後にバチカンに戻されるが、資料が多すぎて移動が大変だったために、その一部がパリの店屋にて野菜や魚の包装紙用にと売られたりもした。戻った資料は膨大すぎて未だに整理されていないので、どこに何が隠されているのか、未だに分からない状態である。ちなみに、教皇の手紙はその死後75年間は施錠された場所に隔離されており、閲覧できなくなっている。
前歴
生い立ち

1808年6月3日、サミュエル・エモリー・デイヴィス(1756年 - 1824年)と、その妻ジェーン・デイヴィスの末子としてケンタッキー州クリスチャン郡に生まれた。デイヴィス家はウェールズ系移民の一族であり、祖父エヴァン・デイヴィスの代にアメリカへ移民し、父エモリーは叔父と共に大陸会議派の義勇兵としてアメリカ独立戦争に加わった他、兄の何人かは米英戦争に参加している。一族はメリーランド州ペンシルベニア州、バージニア州などを転々としていたが、ジェファーソン・デイヴィスが生まれた時には母方の実家のあるケンタッキー州へ移住していた。

デイヴィスの生まれはケンタッキー州であるが、幼少期に一家は二度に亘って他州へ移り住んでいる。一度目は1811年のルイジアナ州セントメアリー郡への移住で、二度目は1812年のミシシッピ州ウィルキンソン郡への移住であった。1813年、小さな農園の所有者となった一家はミシシッピ州に腰を落ち着け、デイヴィスもミシシッピ州民としての帰属心を抱くこととなった。ウィルキンソン郡学校で初等教育を開始したデイヴィスは、2年後にドミニコ会のセントローズ修道院が運営する寄宿学校に入るためにケンタッキー州へと戻った。因みに一家は米国聖公会に属していたため、カトリック系学校では珍しいプロテスタント系の生徒であった。ジェファーソン陸軍学校(英語版)を経てトランシルヴァニア大学(英語版)に進み、1824年に陸軍士官学校への入校推薦を受けた[6]。士官学校では中庸な成績を収め、1828年6月に33名中23位の席次で卒業した[7]

少尉任官後は第1歩兵連隊に配属され、ウィスコンシン州クロフォード要塞に駐留した。最初の任務は1829年に砦の修理および拡張のためにレッド・リバー堤防の材木切断を監督することであった。同年にウィネベーゴ要塞に転属となるが、1831年にイエロー・リバーの製材工場の建設および監督の間に肺炎に罹患してクロフォード要塞に帰還した。1832年、ブラック・ホーク戦争が始まるとデイヴィスは直接戦場に従軍する機会は与えられなかったものの、上官であるザカリー・テーラー大佐の命令で捕縛されたブラックホークの護送役を務めた。
退役と政治活動

ブラックホーク戦争の縁が元で、テイラーの娘であるサラ・ノックス・テイラー(英語版)と恋仲になったデイヴィスは結婚を申し込むが、テイラーは結婚に反対した。1835年6月17日、軍を除隊したデイヴィスはサラと駆け落ち同然に結婚して、妻の叔母に匿われて新婚生活を始めたが、結婚生活はサラがマラリアを患って早世したことで余りに早い終わりを迎えた。

妻の死後、デイヴィスは一転して無口で寡黙な性格に豹変して、塞ぎ込んだままにミシシッピ州のウォーレン郡で一軒家を買い取ると、そこで周囲との連絡を一切絶って世捨て人のような生活を始めた。塞ぎ込んだデイヴィスは他者との交わりも避けて、読書や学問に没頭する隠遁者としての生活は実に8年間にも亘って続けられた。隠遁生活を続けるデイヴィスの拠り所は知識収集であったが、その中でも特に政治学と歴史学に強い熱意を注いでいた。何時しかデイヴィスは兄のジョセフらと政治討議に興じるようになり、社会活動への熱意を取り戻し始めた[8]1843年、デイヴィスは兄と同じ民主党に入党して政治活動を開始、退役軍人としてミシシッピ州の連邦下院選挙に出馬した。また政略結婚として有力政治家の孫娘であったヴァリナ・ハウエルと再婚、6人の子供を儲けた。

1843年、デイヴィスにとっての最初の選挙は落選であったが、1844年に再出馬した時には当選を勝ち取り、ミシシッピ州選出の下院議員として連邦議会に加わった。37歳の時に妻のヴァリナ・ハウエルと(1845年)。ダゲレオタイプ
米墨戦争

議員当選から2年後となる1846年、メキシコ政府との間に米墨戦争が勃発すると、再びデイヴィスは後方での政治活動よりも軍務への復帰で貢献したいと考え始めた。1846年6月、任期途中で議員を辞職してミシシッピ州の義勇軍(州軍)に志願したデイヴィスは、元士官としての経験を買われて義勇軍大佐に任命され、ミシシッピ・ライフル兵(英語版)連隊の指揮官として前線に復帰した[9]。1846年7月21日、デイヴィスはミシシッピ義勇連隊と共にニューオリンズからテキサスへ海路を使って上陸した。連隊兵は当時としては新式であった雷管銃のM1841ミシシッピライフル(英語版)を装備しており、デイヴィスは装備の利点を最大限に活用してメキシコ軍に効果的な打撃を与えることに成功した[9]

1846年9月、デイヴィス率いるミシシッピ義勇連隊はモンテレーの戦いに参加し[10]、1847年2月22日に両軍の決戦となったブエナ・ビスタの戦いでは少将となっていたザカリー・テーラーの指揮下に加わった。デイヴィスはブエナ・ビスタでメキシコ軍相手に勇猛な戦いぶりを見せ、自身も足を負傷しながらも兵を鼓舞して、メキシコ軍に決定的な打撃を与えることに貢献した。戦いを指揮していたテイラーは「娘は私よりも勇敢な男を見る目があった」と賞賛した伝えられている[6]。ジェームズ・ポーク大統領はブエナ・ビスタの戦いでの戦勝を高く評価して[11]、大統領令によってディヴィスを義勇軍准将に昇格することを考えた。しかし合衆国憲法は義勇軍の人事権は連邦政府ではなく各州政府にあると定めており、ディヴィスは各州の自治権を侵害しかねない人事案を拒否している[11]

キューバの合衆国合流を目指していた政治家ナルシソ・ロペスはロバート・E・リーにキューバ独立軍の軍事顧問に就任するよう打診したことで知られているが、デイヴィスにも同様の働きかけが行われている。


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