ジェノサイド
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日本語では「集団殺害」や「大量虐殺」と訳されることが多いが、条約の犯罪要素は「身体的ジェノサイド」と「生物学的ジェノサイド」を具体化したものであり[6]、上記の通りジェノサイドには対象の肉体的殺害が伴わない場合も含まれる。また、定義には被害が大量(多数)であることも虐殺であることも含まれておらず[2]、さらには、特定の、政治共同体人種民族、または宗教集団を破壊する意図を伴わない場合はジェノサイドに当らない[7]
ラファエル・レムキンによる発案

レムキンは、ドイツの大学で言語学を学習していた頃、アルメニア人虐殺の生存者でベルリンタラート・パシャ暗殺したソゴモン・テフリリアン(英語版)の裁判に関心を持ち、法学を学習し始め、1929年に学位を取得した[4]

1939年9月、ドイツ軍ポーランドに侵攻した。レムキンはこれを逃れ、その後スウェーデンを経て渡米しのデューク大学に赴く。1944年連合国側であったアメリカで、カーネギー国際平和財団から『Axis Rule in Occupied Europe(占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治)』を刊行。同書のなかで、「国民的集団の絶滅を目指し、当該集団にとって必要不可欠な生活基盤の破壊を目的とする様々な行動を統括する計画」を指す言葉として、「ジェノサイド」(genocide)という新しい言葉を造語した[8]

なお、レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは1941年8月、ウィンストン・チャーチル英首相のBBCラジオ放送演説における「我々は名前の無い犯罪に直面している」という言葉によるという[9][10]。彼自身の家族や親族も49人がナチスによって殺害されたという。のちに、1945年ニュルンベルク裁判の検察側最終論告において主任検事ベンジャミン・フェレンツによって、「ジェノサイド」が初めて使用された[11]

なお、ホロコースト否定論者のジェームス・J・マーティン(英語版)らは、レムキンがカーネギー国際平和財団から出版したことや、ルーズベルト大統領政権で外国経済行政の主席研究員をつとめており、敵国押収財産の配分と実務処理を担当していたことなどから、ユダヤ・ロビーとの関連性を主張している[12][13]
ジェノサイド条約詳細は「ジェノサイド条約」を参照
ジェノサイド条約における禁止行為

国際連合で採択された(1948年ジェノサイド条約(集団殺害犯罪の防止及び処罰に関する条約、The Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of GenocideまたはGenocide Convention)の第2条では、政治共同体的、人種的、民族的または宗教的集団を全部または一部破壊する意図をもって行われた、次のような行為のいずれをも意味すると説明されている[2](カッコ内は条約で明言されていない具体例についての通説)。
集団の構成員を殺害すること。

集団の構成員に対して重大な肉体的または精神的な害を引き起こすこと。

(拷問、強姦、薬物その他重大な身体や精神への侵害を含む)


全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること。

(医療を含む生存手段や物資に対する簒奪・制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む)


集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。

(結婚・出産・妊娠などの生殖の強制的な制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む)


集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。

(男児に新たな集団で一般的な名前・宗教に改名・改宗させた上で、労働力もしくは兵士として用いる。女児を動産として用いる。)

同条約第3条により、次の行為は集団殺害罪として処罰される。
集団殺害(ジェノサイド)

集団殺害を犯すための共同謀議

集団殺害を犯すことの直接且つ公然の教唆

集団殺害の未遂

集団殺害の共犯

旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程第4条2項並びに、国際刑事裁判所規程第6条には、ジェノサイド条約第2条と同様の規定があり、「集団殺害」について定義されている。
人道に対する罪との違い「人道に対する罪」を参照
1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」判決

国際司法裁判所は、1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対ユーゴスラビア)(管轄権)判決において、ジェノサイド条約によって承認された権利と義務が、ジェノサイド条約という枠組みを超えて、対世的な(erga omnes)権利と義務であると認定した[14]
2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」判決

かつ、同裁判所は、2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」(2002年新提訴、コンゴ民主共和国対ルワンダ)判決において、ジェノサイドの禁止がjus cogensの性質を有すると認定した[15]
事例

以下、国際連合または一部の国にジェノサイドと認められている事例を概説する。ジェノサイドであるかどうか当事国の間で議論となっている事例、また国際世論において大まかにジェノサイドであると見なされているものもある。

政治学者の添谷育志は「ジェノサイド概念を超歴史的に適用することは、歴史責任問題を無限に拡大することになりかねない。」と指摘している[16]

条約上の集団殺害罪に該当するもの。なお、民族浄化の項目も参照のこと。国連でジェノサイドに該当すると認定された行為は意外と少ない。例として以下のものが挙げられる。
オーストラリアのアボリジニ強制同化政策

18世紀以降のオーストラリアにおけるアボリジニ先住民)の強制同化政策。オーストラリア連邦議会の調査書でこれが条約によって規定されるジェノサイドに該当するとの見解が出されたが、政府はこれに反発している。
アルメニア人虐殺

19世紀末から20世紀初頭にかけてのオスマン帝国アルメニア人虐殺アメリカ合衆国政府がジェノサイドと認定しトルコ政府はこの見解に反発しているが、国際的には論争が続いている。
ウクライナのホロドモール

1930年代ウクライナでのホロドモールソビエト連邦による人為的な飢餓弾圧により多くの人々が死亡した。国際連合および欧州議会では人道に対する罪として認定された[17][18]
ナチスのホロコースト

1933年のナチ党の権力掌握から1945年のナチス・ドイツ崩壊までの間に発生した、ナチスによるユダヤ人などに対するホロコースト


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