ジェット・リー
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李連杰〈リー・リンチェイ〉(本名:李陽中〈リー・ヤンチュン〉)は、1963年4月26日、中国東北部遼寧省瀋陽市で生まれた[1][2][3](Web上では北京市[4]と記されていることもある)。5人兄弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、リーが2歳の時に父親が上海に出張中に脳梗塞で亡くなったため、母親が苦労して一家を支えた[1][3]。家は貧しくいつも腹を空かしていた状態だったが、リーは年の離れた姉たちに可愛がられて育つ[1][3]

体の小さな息子の修練になればと考えた母親の勧めで、7歳の時に北京業余体育学校の夏休みコースに参加したリーは[1]、同校に入学した8歳の頃から本格的に中国武術を習い始めた[1][2][3]。他のスポーツではなく武術のコースに進んだのは、体の大きな子にいじめられても反対にその子をやっつけていたリーを見た先生の強い勧めがあったからだった[3]。先生の見込み通りに、どんどんと上達していったリーは選抜チームに選ばれ[1][3]1972年の9歳の時に武術大会に出場した[1]。武術の訓練の傍ら、クンフー(カンフー)をさらに美しく表現するため舞踏の基礎なども学んだリーは、1974年の11歳の時に成安での中国全国武術大会・少年の部で個人総合優勝を果たす[1][3]

以降、青年の部に転じて1979年までに刀術、剣術、槍術などの種目で活躍し、個人総合優勝5年連続という大きな記録を打ち立てた[1][2][3](2019年時点で、この記録は破られていない)。「中国武術界の至宝」と賞讃され[1][3]、中国の様々な雑誌の表紙を飾っていたリーは、少年チームの仲間と一緒にアメリカヨーロッパ中東などへ親善ツアーに回った[1]

体育学校でのチーム練習に励んでいた厳しい修業時代には、やんちゃでいたずら小僧的な面やユーモアもあり、こっそりとうまく倉庫に忍び込みチョコレートやリンゴやみかんなどをこっそり盗んできてみんなに配ったり、1975年の地震で寮や練習場が倒壊寸前になった時も、先生の言うことを聞かずに危険な建物に窓から入って食堂から食べ物を調達したりする子供だったという[5]
香港映画界へ

そんな中国武術の活動の日々の中、映画監督の張?炎(チャン・シン・イエン)が少林拳を題材とする映画の出演者を選ぶために北京業余体育学校を訪れ、監督らによるカメラテストで主役はリーが適役と判断された[5]1981年に知り合いの映画スタッフから映画主演の誘いがあり、「自分が学んできた中国武術の素晴らしさを世に示せるなら……」と考えたリーは依頼を快諾し[1]、19歳の時に中国・香港合作の初主演作『少林寺』(1982年)で映画デビューを果たした(芸名の李連杰=リー・リンチェイ名義)[1][2][3]

動乱の中国を舞台に、圧政を強いるワン将軍に父親を殺され仇討ちをする少年「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}小虎(ショーホ)」を演じた初々しい18歳のリーはたちまち中国の人気スターとなった[6][7][8]。リー同様に少林拳法の武術特訓を演じた他の武術少年たちも無名キャストばかりだったが、武術修行に励むシーンのリーの動きの芸術性や[7]、中国本土ロケのエキゾチックな風景、生真面目で切れ味の鋭い拳法の美しさが日本人の好みに合致して、中国や香港だけでなく日本でも大ヒットとなった[1][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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