ジェイムス・ジョイス
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1903年、学士の学位を得てユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業したのち、ジョイスはパリへ留学する。医学の勉強が表向きの理由であったが、貧しい家族がジョイスの浪費癖に手を焼いて追い払ったというのが真相である。しかし、癌に冒された母の危篤の報を聞いてダブリンに引き返すまでの数ヶ月間も、あまり実りの無い自堕落な生活に費やしていたという。母の臨終の際、ジョイスは母の枕元で祈りを捧げることを拒否した(母と不仲であったためではなく、ジョイス自身が不可知論者であったことによる)。母の死後、ジョイスは酒浸りになり家計はいっそう惨憺たるものとなったが、書評を書いたり教師や歌手などをして糊口をしのいだ。

1904年1月7日、ジョイスは美学をテーマとしたエッセイ風の物語『芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist")を発表しようと考え、自由主義的な雑誌『Dana』へ持ち込んだが、あっさりと拒絶された。同年の誕生日、ジョイスはこの物語に修正を加えて『スティーブン・ヒーロー』("Stephen Hero")という題の小説に改作しようと決意した。このころ、彼はゴールウェイ県コネマラからダブリンへやってきてメイドとして働いていたノラ・バーナクル(1884?1951)という若い女性と出会った。のちの作品『ユリシーズ』はダブリンのある1日のできごとを1冊に封じ込めたものであるが、この「ある1日」こそ、二人が初めてデートした「1904年6月16日」にほかならない(ブルームズデイ参照)。

ジョイスはその後もしばらくダブリンにとどまり、ひたすら飲み続けた。こうした放蕩生活をしていたある日、ジョイスはフェニックス・パークで一人の男と口論の末喧嘩になり逮捕された。父ジョンの知人アルフレッド・H・ハンターなる人物が身元引き受け人となってジョイスを連れ出し、怪我の面倒をみるため自分の家へ招いた。ハンターはユダヤ人で、妻が浮気をしているという噂のある人物であり、『ユリシーズ』の主人公レオポルト・ブルームのモデルの一人となっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなるオリバー・セント=ジョン=ゴガティ(のちに本業の医者としてだけでなくW・B・イェイツから称賛されるほどの文筆家としても知られるようになる)という医学生とも親しくなり、ゴガティ家がダブリン郊外のサンディコーヴに所有していたマーテロー・タワーに6日間滞在している。その後二人は口論になり、ゴガティが彼に向けて銃を発砲したためジョイスは夜中に逃げ出し、親戚の家に泊めてもらうためダブリンまで歩いて帰った。翌日、置き忘れてきたトランクは友人に取りに(盗りに?)行かせている。この塔は『ユリシーズ』劈頭の舞台となっているため現在ではジョイス記念館となっている。

その後まもなく、ジョイスはノラを連れて大陸に駆け落ちした。
トリエステ時代(1904年 - 1915年)

ジョイスはノラと自発的亡命に入り、まずチューリッヒへ移住してイギリスのエージェントを通してベルリッツ語学学校で英語教師の職を得た。このエージェントは詐欺に遭っていたことが判明したが、校長はジョイスをトリエステ第一次世界大戦後にイタリア領となるが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)へ派遣した。トリエステへ行っても職を得られないことが明らかとなったが、ベルリッツのトリエステ校校長の取り計らいにより、1904年10月からオーストリア・ハンガリー帝国領プーラ(のちのクロアチア領)で教職に就くこととなった。

1905年3月、オーストリアでスパイ組織が摘発されてすべての外国人が追放されることになったためプーラを離れざるをえず、再び校長の助けによりトリエステへ戻って英語教師の仕事を始め、その後の10年の大半を同地で過ごすこととなる。同年7月にはノラが最初の子供ジョルジオ(1905?76)を産んでいる。ジョイスはやがて弟のスタニスロース(1884?1955)を呼び寄せ、同じくトリエステ校の教師としての地位を確保してやった。ダブリンでの単調な仕事よりも面白かろうというのが表向きの理由であったが、家計を支えるためにはもう一人稼ぎ手が欲しいからというのが本音であった。兄弟の間では主にジョイスの浪費癖と飲酒癖をめぐって衝突が絶えなかった。この年の12月、ロンドンの出版社に『ダブリン市民』の中の12編を送っているが出版は拒否された。

やがて放浪癖が昂じてトリエステでの生活に嫌気がさしたジョイスは、1906年7月にローマへ移住して銀行の通信係として勤めはじめる。『ユリシーズ』の構想を(短編として)練りはじめたり『ダブリン市民』の掉尾を飾る短編「死者たち」の執筆を開始したのもローマ滞在中のことである。しかしローマがまったく好きになることができずに1907年3月にはトリエステへ帰ることとなった。この年の7月には娘ルチア(1907?82)が誕生している。執筆に関しては、同年5月に詩集『室内楽』("Chamber Music")を出版したほか、「死者たち」("The Dead")を脱稿し、『芸術家の肖像』を改題した自伝的小説『スティーヴン・ヒーロー』を、『若き芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist as a Young Man")として再度改稿へ着手している。

1909年の7月にジョイスは息子ジョルジオを連れてダブリンへ帰省した。父に孫の顔を見せることと、『ダブリン市民』の出版準備とがその目的である。8月にはモーンセル社と出版契約を結び、ゴールウェイに住むノラの家族との初対面も成功裏に済ませることが出来た。トリエステへ帰る準備をしながら、ジョイスはノラの家事の手伝いとして自分の妹エヴァを連れて帰ることに決めた。トリエステへ戻って一月後、ダブリンで最初の映画館「ヴォルタ座」を設立するため再度故郷へ帰る。この事業が軌道に乗った1910年1月、もう一人の妹アイリーンを連れてトリエステに戻る(ただし映画館はジョイスの不在中にあっけなく倒産してしまう)。エヴァはホームシックにより数年でダブリンへ戻ってしまうが、アイリーンはその後の生涯を大陸で過ごし、チェコの銀行員と結婚した。

1912年6月、『ダブリン市民』について収録作の一部削除などの注文をつけてきたモーンセル社の発行人ジョージ・ロバーツと決着をつけるため再びダブリンへ舞い戻る。しかし意見の相違から両者は決裂し、3年越しの出版契約は白紙化されることとなってしまう。落胆したジョイスはロバーツにあてつけた風刺詩「火口からのガス」("Gas from a Burner")を書いてダブリンを離れる。そしてこれがジョイスにとって最後のアイルランド行となった。父親の求めや親しいイェイツの招待を受けても、ロンドンより先に足を向けることは二度となかった。

この期間、ジョイスはダブリンへ戻って映画館主になろうと試みるほか、計画倒れに終わったもののアイルランド産ツイードをトリエステへ輸入するなどさまざまな金策を立てている。ジョイスに協力した専門家たちは彼が一文無しにならずにすむよう力を貸した。当時のジョイスはもっぱら教師職によって収入を得ており、昼間はベルリッツ校やトリエステ大学(この当時は高等商業学校)の講師として、夜は家庭教師として教鞭を振るった。こうして教師職をかけもちしていたころに生徒として知り合った知人は、ジョイスが1915年にオーストリア・ハンガリー帝国を離れてスイスへ行こうとして問題に直面したさいに大きな助力となった。

トリエステでの個人教師時代の生徒の一人には、イタロ・ズヴェーヴォのペンネームで知られる作家アーロン・エットーレ・シュミッツがいる。二人は1907年に出会い、友人としてだけでなく互いの批評家として長い交友関係をもつこととなった。ズヴェーヴォはジョイスに『若き芸術家の肖像』の執筆を勧め励ましただけでなく、『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームの主要なモデルとなっており、同作中のユダヤ人の信仰に関する記述の多くは、ユダヤ人であるズヴェーヴォがジョイスから質問を受けて教示したものである。ジョイスが眼疾に悩みはじめることとなったのもトリエステでのことである。この病は晩年のジョイスに十数度にわたる手術を強いるほど深刻なものであった。
チューリッヒ時代(1915年 - 1920年)1915年

第一次世界大戦が勃発してオーストリア・ハンガリー帝国での生活に難儀したジョイスは、1915年チューリッヒへ移住した。この地で知り合ったフランク・バッジェン(Frank Budgen)とは終生の友人となり、『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』の執筆に際しては絶えずバッジェンの意見を求めるほどの信頼を置くようになった。またこの地ではエズラ・パウンドによりイギリスのフェミニストである出版社主ハリエット・ショー・ウィーヴァーに引き合わされた。彼女はジョイスのパトロンとなり、個人教授などする必要なく執筆に専念できるようその後25年にわたり数千ポンドの資金援助をした。ジョイスとエズラ・パウンドが対面するのは1920年のことになるが、パウンドはイェーツとともに尽力してまだ見ぬジョイスにイギリス王室の文学基金や助成金をもたらしたり、ジョイスのために『ユリシーズ』の掲載誌を紹介するなどさまざまな協力をした。終戦後にジョイスは一度トリエステへ戻るが、街はすっかり様変わりしていたうえに弟(戦争中は思想犯としてオーストリアの収容所に拘留されていた)との関係も悪化してしまう。1920年、パウンドの招待を受けてジョイスは一週間ほどの予定でパリへ旅立つが、結局その後20年間をその街で過ごすこととなる。
パリ時代(1920年 - 1940年)

自身の眼の手術と統合失調症を患った娘ルチアの治療のためジョイスはたびたびスイスを訪れた。パリ時代にはT・S・エリオットヴァレリー・ラルボー(Valery Larbaud)、サミュエル・ベケットといった文学者との交流が生れた。パリでの長年にわたる『フィネガンズ・ウェイク』執筆中はユージーン・ジョラスとマライア・ジョラス夫妻がジョイスの手助けをした。夫妻の強い支持とハリエット・ショー・ウィーヴァーの財政支援がなかったならば、ジョイスの著書は脱稿にさえ至らなかった可能性が高い。ジョラス夫妻は伝説的な文芸雑誌『トランジション』にジョイスの新作を『進行中の作品』("Work in Progress")の仮題で不定期連載した。この作品の完結後につけられた正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")である。
ふたたびチューリッヒ時代(1940年 - 1941年)

1940年ナチス・ドイツによるフランス占領から逃れるべくジョイスはチューリッヒへ帰還する。

1941年1月11日、十二指腸潰瘍穿孔の手術を受ける。術後の経過は良好であったが翌日には再発し、数度の輸血の甲斐もなく昏睡状態に陥った。1月13日午前2時、眼を覚ましたジョイスは再び意識を失う前に妻と子供を呼ぶよう看護師に伝えた。その15分後、家族が病院へ駆けつけている途中にジェイムズ・ジョイスは息絶えた。

埋葬されたチューリッヒのフリュンテン墓地は動物園の隣にあり、ジョイスの好きだったライオンの鳴き声が聞こえるのがルチアの気に入ったという。後にジョイスの10年後に亡くなった妻ノーラ(1904年に駆け落ちして1931年に正式に結婚した)、1976年に没した息子ジョルジオも彼の隣に埋葬された。
著作
一覧Dubliners, 1914


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