シント・マールテン
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このほか、クルドサック (nl:Cul de Sac (Sint Maarten)) (7880人)、コール・ベイ (nl:Cole Bay) (6046人)といった地区が多くの住民を擁している。

西部のシンプソン・ベイ・ラグーン周辺はリゾート地区となっている。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

フィリップスブルフ

海上からの眺め

歴史詳細は「シント・マールテンの歴史(英語版)」を参照
「発見」と争奪

この島は、1493年コロンブスによって「発見」され、サン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martin)と命名されたが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。島に注目をしたのは、フランスとオランダであった。オランダ人たちは、ニューアムステルダムブラジルの中間に拠点を欲していたのである。

1631年、オランダ人たちは町とアムステルダム砦 (Fort Amsterdam (Sint Maarten)) を築いた。島の人口は少なかったため、拠点建設は容易に進んだ。Jan Claeszen Van Campen が最初の総督になり、間もなくオランダ西インド会社が塩鉱の経営に乗り出した。同様にフランス人やイギリス人の植民者も進出した。かれらが塩の交易に成功すると、スペインもこの島の価値に気づくようになった。当時、スペインとオランダは八十年戦争を繰り広げており、この島にも戦火は及んだ。

1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した (Capture of Saint Martin (1633)) 。スペインは Point Blanche に砦を建設している。オランダはその後たびたびセント・マーチン島の奪回を図ったが、すべて失敗に終わっている。のちにニューネーデルラント総督を務めることになるピーター・ストイフェサントは、1644年にセント・マーチン島への攻撃を指揮するも、片足を失っている (Attack on Saint Martin) 。スペインによる占領から15年後の1648年、八十年戦争は終結するが、このころにはスペインはカリブ海の拠点経営に関心を失っており、セント・マーチン島も放棄された。
フランスとの分割国境モニュメントのひとつ

空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。オランダはシント・ユースタティウス島から、フランスはセントキッツ島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。この過程で衝突も発生し、相手が容易に退かないことを知った双方は、全面戦争に突入することを避けるべく、1648年にコンコルディア条約 (Treaty of Concordia) に署名して島を二分した。その後、イギリスが島の支配を図り、フランス・オランダと激しく争うこととなった。1648年から1816年にかけて、持ち主の交替は16度も生じている。現在の状況が確定したのは、1815年パリ条約である。

オランダ領「シント・ユースタティウス植民地」の一部となったシント・マールテンは、その後「西インド植民地」の一部となった時期を経て、1845年以降ほかのカリブ海地域のオランダ領とともに「キュラソー植民地」の一部となり、キュラソー島ウィレムスタットの総督の管轄下に置かれた。

島には多くの奴隷が移入された。最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちであったが、プランテーションタバコ綿花が栽培されるようになると、移入され労働に従事させられた奴隷の数は膨大なものとなった。オランダ領側で奴隷制度が廃止されたのは1863年で[1]、これはフランス領側に後れること15年であった。
20世紀以後

奴隷制度廃止後、プランテーション経営は衰退し、島の経済も後退した。1939年、シント・マールテンは免税港を宣言し、経済発展に向けて進むようになる[1]。第二次世界大戦後の1948年、キュラソー植民地は「オランダ領アンティル」に名を改めた。1951年制定のオランダ領アンティル島嶼法によって、オランダ領アンティルを構成する島区(eilandgebied)に自治権が与えられるようになった。シント・マールテンを含むSSS諸島の島々はウィンドワード諸島区 (Eilandgebied de Bovenwindse Eilanden) としてまとめられた。1954年にオランダ領アンティルは自治領となった。

1950年代、シント・マールテンでは急速に観光産業が発展した[1]。一つの島がオランダとフランスとに分けられているユニークな地理的状況もあって観光熱は周囲の島々よりも高く、プリンセス・ジュリアナ国際空港1943年開港)は東カリブで最も利用者の多い空港となった。島全体の人口も5,000人程度から、1990年代半ばには8万人にまで増加した。1983年にはウィンドワード諸島区が分割され、シント・マールテンは単独の島区となった。

オランダ領アンティルの解体要求が高まると、2000年6月23日の住民投票ではオランダ領アンティルに残ることを選んだが、2006年6月1日の投票では脱退の方を選んでいる。2010年10月、オランダ領アンティルは解体された。シント・マールテンは、アルバキュラソーとともにオランダ本国と対等な、オランダ王国の構成国となった。
政治詳細は「シント・マールテンの政治(英語版)」を参照裁判所はシント・マールテンの象徴的建築物で、紋章にも描かれている

シント・マールテン(Land Sint Maarten)は、オランダ王国構成国である。オランダ語では単に「国」を示す語(: land)で呼ばれる「構成国」の地位はオランダ王国憲章(英語版)に定められており、シント・マールテンはアルバキュラソーオランダ(オランダ本国)と対等な関係でオランダ王国を構成している。


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