しかしそれと同時に逃亡奴隷を捕捉して南部へ送り返そうとする者や、奴隷制廃止に反対の立場を取る者もまた多くいた。またこの時期のシンシナティの地域経済自体が、奴隷州との通商に大きく支えられていた。こうした背景から、19世紀中盤のシンシナティではしばしば人種がらみの暴動が起きた。1829年には、奴隷制廃止反対派が市内の黒人を攻撃し、暴動となった。この結1,200人の黒人が街を離れ、カナダに避難した[9]。この暴動と避難は全米で議論を呼び、1830年にフィラデルフィアで第1回黒人会議が開かれるに至った。1836年には700人の奴隷制廃止反対派が群れを成して黒人居住地区に攻撃を仕掛け、また奴隷制廃止派の週刊誌であるザ・フィランソロピスト誌の本社を破壊した[10]。同種の暴動は1841年にも起きた[11]。1850年に逃亡奴隷法が成立すると、そうした緊張はさらに高まった。
南北戦争中にはシンシナティはその地理的条件から、北軍の重要な兵站拠点としての役割を果たすと共にオハイオ軍管区の司令部が置かれた。また、郊外には新兵の徴集・訓練・負傷兵の治療の拠点としてキャンプ・デニソンが設置された。その一方で、シンシナティは南軍にとっては格好の標的であった。1862年9月には、南軍のヘンリー・ヒース准将が約8,000の兵を率いてシンシナティに侵攻しようとした。しかし、北軍の少将ルー・ウォーレスが指揮する約25,000のオハイオ軍に加えて、デイビッド・トッド州知事の号令で集結した、スクワーレル・ハンターズ(リス猟師)と呼ばれた約60,000の民兵が街の守りに就き、ヒース隊を撤退させた[12]。シンシナティの防衛成功により、ウォーレスは一躍、この地の英雄として讃えられた[13]。
19世紀から現在シンシナティの豚肉加工(1873年)
南北戦争が終わると蒸気船に代わって鉄道交通が目覚ましい成長を遂げたが、主要路線の多くは東部と北西部を結ぶものであった。シンシナティ市当局は工業化の進む中西部に南部の天然資源をもたらすのみならず、戦後復興の進む南部市場にアクセスする手段ともなる鉄道の必要性を認識し、1869年にシンシナティ・サザン鉄道を建設する法案を可決した。この鉄道は11年後の1880年に開通し、シンシナティとテネシー州チャタヌーガとが結ばれた[14]。
19世紀後半のシンシナティでは食肉加工に加えて、製鉄・繊維・木材加工といった産業が発展した[6]。また、1889年には、もともとは馬車であったストリートカーが電化された[15]。しかし、この頃になると、大陸横断鉄道の連節点となったシカゴやセントルイスが急速な成長を遂げ、また州内でも製鉄をはじめとする重工業都市としてクリーブランドが台頭してきたこともあり、シンシナティは成長を続けながらもその相対的な地位を落とした。それでもなお、1900年に至るまで、シンシナティは全米10大都市の1つに名を連ねていた。1929年の世界恐慌の際には、シンシナティが受けた経済的打撃は、鉄道よりも安価であるという理由による河川交通の盛り返しで相殺され、結果として全米の他の大都市に比べると軽微なものにとどまった。ファウンテン・スクエア(1907年)
20世紀に入るとシンシナティにも超高層ビルが建てられるようになった。1913年に完成したユニオン・セントラル・タワー[16](現在の名称はPNCタワー)は、31階建て、高さ151mで、当時としては世界で5番目に高いビルであった[17]。1931年には、カリュー・タワーが、世界恐慌の影響で建設費削減のためのデザイン変更を余儀なくされながらも完成した[18]。シンシナティの人口は20世紀に入っても中盤まで緩やかではあるものの増え続け、1950年には人口50万3998人でピークに達した[4]。