初期のシンシナティは食肉加工で特に豚肉加工の中心地として発展し、ポークポリス(豚肉の都)と呼ばれた[6]。また、オハイオ川の河港であったシンシナティは19世紀前半から蒸気船が寄港する水上交通の拠点及び蒸気船製造の拠点として発展し[6]、1825年に建設の始まったマイアミ・エリー運河がその成長を促した。マイアミ・エリー運河はオハイオ川の支流であるグレートマイアミ川を起点に北進し、1827年に北郊のミドルタウンまで開通し供用開始、その後1830年にデイトンまで、そして1840年にはエリー湖岸のトレドまで延伸した。加えて陸上においても、1836年にリトル・マイアミ鉄道の建設が認可され.[7]、1846年にスプリングフィールドまで全通し、1849年にはスプリングフィールドまで開通したマッド・リバー・アンド・レイク・エリー鉄道と接続して、エリー湖のサンダスキー湾の湖港へとつながった。1853年にはリトル・マイアミ鉄道の途中駅ゼニアでコロンバス・アンド・ゼニア鉄道と接続して、州都コロンバスへと至る鉄道交通も確立された。商業も早い時期から発展し、街にはオハイオ川を下ってさらに西を目指す入植者の需要に応えるようにホテル・レストラン・酒場が建ち並び[6]、1837年にはプロクター・アンド・ギャンブルが創立した。市のこうした急成長の最中、シンシナティの住民は市をクイーン・シティ(女王都市)と呼ぶようになった。1850年にはシンシナティは115,435人の人口を抱え、ニューヨーク(515,547人)、ボルチモア(169,054人)、ボストン(136,881人)、フィラデルフィア(121,376人)、ニューオーリンズ(116,375人)に次ぐ全米第6の都市に成長していた[3]。
南北戦争地下鉄道の経路図(1830-65年)
南北戦争前夜にはオハイオ川1本隔てた対岸は南部の奴隷州という立地から、シンシナティは自由を求めてオハイオ川を渡った逃亡奴隷をさらに北へと逃がす地下鉄道の重要な拠点、そして奴隷制廃止運動の中心地となった。ハリエット・ビーチャー・ストウはシンシナティに住んでいた間に逃亡奴隷に会い、その話を基にして「アンクル・トムの小屋」を書き上げた。リーヴァイ・コッフィンは1847年にインディアナ州からシンシナティに移り、ここを奴隷制廃止活動の拠点とした[8]。
しかしそれと同時に逃亡奴隷を捕捉して南部へ送り返そうとする者や、奴隷制廃止に反対の立場を取る者もまた多くいた。またこの時期のシンシナティの地域経済自体が、奴隷州との通商に大きく支えられていた。こうした背景から、19世紀中盤のシンシナティではしばしば人種がらみの暴動が起きた。1829年には、奴隷制廃止反対派が市内の黒人を攻撃し、暴動となった。この結1,200人の黒人が街を離れ、カナダに避難した[9]。この暴動と避難は全米で議論を呼び、1830年にフィラデルフィアで第1回黒人会議が開かれるに至った。1836年には700人の奴隷制廃止反対派が群れを成して黒人居住地区に攻撃を仕掛け、また奴隷制廃止派の週刊誌であるザ・フィランソロピスト誌の本社を破壊した[10]。同種の暴動は1841年にも起きた[11]。1850年に逃亡奴隷法が成立すると、そうした緊張はさらに高まった。
南北戦争中にはシンシナティはその地理的条件から、北軍の重要な兵站拠点としての役割を果たすと共にオハイオ軍管区の司令部が置かれた。