シンガーソングライター
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なお、「女性シンガーソングライター」の原型は、1967年に小薗江圭子の詞に自分で曲をつけた「この広い野原いっぱい」でデビューした森山良子という見方もあるが、森山は職業作詞家・作曲家の作品や洋楽カバー曲を歌うことが多く1970年代半ばまで歌謡曲歌手というイメージがついていた[2][80]

今日に繋がる「女性シンガーソングライター」の草分けは、1972年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃあたりで、「女性シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲はヤマハポプコン出身の小坂明子が1973年12月に出した「あなた」である[2][79]。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていく[49][81]。また歌謡曲歌手にも大きな影響を与えた[82]。1970年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークはニューミュージックという呼び方に吸収されていった[73][83]。歌謡曲のフィールドでも渡辺真知子のように自作曲で日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するような者も出てきた。1980年以降には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになった[69][84]。現在の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っている[63][67]

平尾昌晃は「昭和40年代後半のアイドルブームに沸く日本の歌謡界に、沖合から大きな波が押し寄せていた。それが『フォーク・ブーム』である。吉田拓郎、井上陽水らのヒットを契機に、南こうせつとかぐや姫、グレープなどの、いわゆる叙情的なフォークソングもヒットし『昭和歌謡』の幅はグンと広がった。この頃から、フォークソングは、ニューミュージックと言われる時代に入ったのだと思う。僕は作曲家であり、歌手でもあるけど、正直言って、彼らの才能には脱帽した。何しろ、自ら作詞作曲し、楽器を演奏しながら歌う彼らがひとりではなく、次々と登場してきたのだから。しかも、彼らが自分で歌う『結婚しようよ』にしろ、『傘がない』にしろ、『神田川』『精霊流し』『なごり雪』にしろ、それがまた名曲であったからである」などと論じている[85]

小西良太郎は『スタア』1975年1月号の「歌は世につれ世は歌につれ 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考」という記事で[86]、「1974年10月最終週のLPレコードの売り上げは「1位『二色の独楽』(井上陽水)、2位『かぐや姫LIVE』(かぐや姫)、3位『氷の世界』(井上陽水)、4位『NSP III』(NSP)、5位『陽水ライヴ』(井上陽水)、6位『ゴールデン・プライズ第2集』(カーペンターズ)、7位『追憶』(沢田研二)、8位『オン・ステージ』(八代亜紀)、9位『ぼくがつくった愛のうた』(チューリップ)、10位『ライブ3』(五木ひろし)と、フォーク勢が上位を独占。シングル盤でも話題は豊富で、ガロ、かぐや姫、あのねのねなぎらけんいち海援隊加藤登紀子長谷川きよし、りりぃ、山本コータローとウィークエンド、NSP、ダ・カーポ三輪車チェリッシュ、よしだたくろうも健在で大にぎわい。このほとんどが、自作自演である。彼や彼女らは年齢的にも、感性の点でも、聞き手の若者たちと同じか、近いところにいる。それが自分に素直に手作りの歌を作っていくから、ファンの気分にフィットする率が高い。そんな要素がファン不在に近い歌作りに堕した歌謡曲プロデューサーの失点をうまいぐあいに挽回してしまったといえる。ダークホースが大当たりしたのが1974年一年のヒット曲の三分の一、若年寄り扱いになりかかった中堅どころのヒットが三分の一、残り三分の一がフォーク系という大ざっぱな計算が成り立つのだから、フォークは今や流行り歌世界の一大勢力にのし上がったとことになる。そこから、歌謡化したフォークへの異議が生まれる。このジャンルが芽を吹いたのは70年安保を控えての岡林信康や高石ともやあたりからだが、昨今のフォークの、精神不在を嘆く声が出るのもムリのない話ではある。しかしここで大事なのは、ファンをつかみはじめた支流を排斥することではなく、全員がそれぞれの立場から、フォークの意味を再確認し、よって来るところを踏まえ直すことだろう」などと論じている[86]。5頁に及ぶこの記事内で、小西は一度も「ニューミュージック」という言葉を使用していないため、記事を書いたと見られる1974年暮れには音楽関係者の間でも、まだ「ニューミュージック」という言葉は普及していないものと考えられる。

当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉だったが、ニューミュージックが、フォーク以上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、1970年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人はジャンルにかかわらず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになった[87]

所ジョージは1977年のデビュー時からシンガーソング・コメディアンと名乗り[88]、1981年の週刊誌は、俳優・寺尾聰の大ヒットを大人の味を持ったシンガーソングライター[89]、『男道』という自作曲のレコードを出したプロ野球選手松岡弘をプロ野球界初のシンガーソングライター誕生!と紹介した[90]。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時はシンガーソングティーチャー登場と書いている[90]。またそれまでの「自作自演」という言い方よりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられる。こうした理由もあって現在、前述した人物の多くが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されている[30][91]

先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1971年、1972年以降で、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、1960年代後半に現れた高石友也や岡林信康といった人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれず、のちにそう呼ばれるようになった[18][19]。高石は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返される。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話している[92]。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれ方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に大きな成功を手にした1970年代以降の(一部の)「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれない。


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