1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた[25]。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた[25][26]。また、『ファイアー・アンド・レイン』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている[25][26]。
また、フォークブーム期であった1960年代末にはカナダのシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、レナード・コーエン、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した[27]。 日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいた。作詞家&演者だった[28]添田唖蝉坊なども広義ではシンガーソングライターといえるかも知れない。 1930年代には演歌師の石田一松が自作自演した「酋長の娘」をヒットさせた。広義における本格的なシンガーソングライターの嚆矢と言われる林伊佐緒は1930年代から「出征兵士を送る歌」など、自身の曲の大半を自ら作曲・歌唱した。1950年代には大橋節夫が自作曲を歌いヒットしハワイアンブームの先駆となった他、1958年には「ロカビリー3人男」と言われた平尾昌晃も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせた[29][30]。 1960年代には森繁久彌、加山雄三、荒木一郎、市川染五郎、美輪明宏といった人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた[19]。 歌謡曲には古くからレコード会社とプロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが[21][31]、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た[32]。加山のケースでいえば自身の主演作『ハワイの若大将』の劇中歌に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった[33]。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない[34]。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、自分たちの言葉で歌にしていくと、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる[35][36][37][38][39]。また音楽的ベースも加山はグループ・サウンズであり、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランやPP&Mなど、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なる[36][40]。加山自身「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と話しており[41]、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる[42]。荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている[43]。岡林信康や吉田拓郎、小室等、井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいない[44][45][46]。小室等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」[46]、吉田拓郎は「音楽の世界での僕の諸先輩方は、歌謡曲やグループ・サウンズですから。ソングライティングはしていない。日本の音楽界に関しては、僕の上の世代はいない。僕がいつも最初なんです」[45]等と述べている。1960年代後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである[47]。 「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、吉田拓郎のブレイク以降である[47][48][49][50]。『ニューミュージック・マガジン』1972年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっていることは?」という内田裕也の発言が見られ[51]、同じく1972年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面がある[52]。
日本での歴史
前史
1970年代?