シルヴィオ・ベルルスコーニ
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2013年11月16日、自由の人民によるローマ党大会でベルルスコーニは党の解散と大連立政権からの離脱を宣言し、自身を支持する下院議員67名・上院議員62名と「フォルツァ・イタリア」(FI)を再結成した[34]。これを受けて下院議員29名・上院議員30名からなる新中道右派は正式に会派から政党へ移行、かつて与党でもあった自由の人民はLFI、FdI-CN、NCD、FIの4政党に分裂した。

2013年11月26日、上院での来年度予算案について旧自由の人民系の諸政党は一致した行動を取らず、新中道右派が賛成票を投じて大連立政権への残留を示すのに対して、フォルツァ・イタリアは反対票を投じた。フォルツァ・イタリアの下院院内総務を務めるブルネッタ議員は「本日から我々は野党の立場となる」とコメントした[35]

2013年11月27日、予算案から一夜明けた上院で予定されていたベルルスコーニの議員資格剥奪に関する投票が行われ、賛成多数で可決された[36]。これによってベルルスコーニは1994年の初当選以来、連続当選を続けて20年近く維持してきた議席を失い、議会から追放された[36]。議会への再出馬も6年間は停止される見通しとなり[37]、公職追放を巡る裁判や高齢である事なども考えればイタリア共和国議会への復帰は困難となった。議員失職の報道が流れるとイタリアの政治正常化を期待してか、欧州株式市場が上昇する事態となった[38]

しかし資産家としての地位も変わらず、フォルツァ・イタリアの党首職にも留まっているため、完全に政治生命を絶たれたわけではない。議事堂の周辺にあるベルルスコーニの自宅前には支持者達が押し寄せ、ベルルスコーニは支持者たちの声援に「(議員資格を奪われても)引退はしない」と政界引退を否定する演説を行った[36]。欧州議会選への鞍替え出馬など復権に向けた計画を着々と進めるほか[39]、長女マリナ・ベルルスコーニをフィニンヴェスト会長、次女バルバラ・ベルルスコーニフィニンヴェスト取締役およびACミランCEO、長男ピエル・シルヴィオ・ベルルスコーニをメディアセット会長にそれぞれ就任させるなど、一族経営による家業の世襲を進めた。
二度目の国政復帰晩年時期のベルルスコーニ(2021年)

2014年、民主党内で左翼的な社民勢力から中道左派のリベラルに主導権が移ってマッテオ・レンツィ政権が成立、親EUの立場から緊縮政策を推進した。野党では左派ポピュリズム五つ星運動に加えて北部同盟右派ポピュリズム転向、また極右政党のイタリアの同胞も勢力を伸ばしていた。左右でのポピュリズム・急進主義・反EUが広がる中、親EU派かつ中道右派であるフォルツァ・イタリアと民主党が再び接近した。これはベルルスコーニの政治的権力を回復させる事も意味したが、公職追放処分の関係から表立った行動は避けている。

2017年、高齢を理由とする禁固刑の代替としての社会奉仕活動を終え、脱税に関する刑期が終了した。反汚職法の規定によって公民権停止は2019年まで継続するが、禊を終えたとばかりに政治活動を活発化させている。同年に欧州人民党からの支援を取り付け、フォルツァ・イタリア所属のアントニオ・タイヤーニ欧州議会議員を欧州議会議長に選出させた。

2018年、総選挙ではフォルツァ・イタリア、同盟(北部同盟から党名を改称)、イタリアの同胞による「中道右派連合」を結成して選挙に臨んだ。レンツィ政権の評価を巡って分裂した左派や連立を拒否した五つ星運動を破って第1党派となったが、同盟が最大議席を獲得した事から右派連合内での主導権争いが起きた。また反EUで一致する同盟と五つ星運動によるポピュリズム連立構想にも強い警戒感を示し、ベルルスコーニはジュゼッペ・コンテ政権への閣外協力を拒否してフォルツァ・イタリアは野党となった。

2019年、正式に公民権停止処分が解除された事を受けて欧州議会選挙にフォルツァ・イタリアの候補として出馬、北西イタリア選挙区で欧州議会議員に当選した。

2022年9月29日、86歳の誕生日に、ベルルスコーニ宛てにロシアのプーチン大統領からウォッカ20本が贈られた。これに対し同年10月20日に欧州委員会EUによって4月に合意した制裁にはロシア産品の輸入禁止の対象にウオッカなどが含まれたとし、贈り物も例外扱いにはならないと指摘した[40]
死去詳細は「シルヴィオ・ベルルスコーニの死と国葬(英語版)」を参照

2023年5月に慢性白血病に関連する肺感染症の治療を終えたが、約3週間後の6月9日に緊急入院[41]。12日、ミラノのサン・ラファエル病院(英語版)で死去。86歳没[42][43]。6月14日にミラノのドゥオーモ(ミラノ大聖堂)で国葬が営まれた[44]

7月15日、フォルツァ・イタリアは副党首のアントニオ・タイヤーニを後任の党首に選出した。タイヤーニは「我々の党首はベルルスコーニ氏だけ」として、党会合でトップの名称を「書記長」に変更するよう提案し、承認された[45]


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