シルヴィオ・ベルルスコーニ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

一方、政治的駆け引きと並行して懸案事項であるベルルスコーニへの捜査や裁判も進展しており、ナポリ地方検察局は捜査が継続されていた事件の一つである「ロマーノ・プロディ政権への陰謀疑惑」(議員買収疑惑)で一度却下された起訴を再申請した[17]。またミラノ地方検察局は未成年者への買春疑惑についても立件を決定、ベルルスコーニに公職追放と禁固6年を求刑する方針を示した[18]。また民事では2番目の妻となるヴェロニカ・ラリオとの離婚問題でそれまでの生活費の支払いを継続するように求めた妻側の要求が通り、月3億円超の支払いをミラノ地方裁判所に命じられた[19]。ベルルスコーニが富豪という点から見れば支払いは可能であると見られるが、巨額の財産分与となる命令にベルルスコーニは控訴したが棄却され、示談交渉に入った[19]
党内対立

上記の駆け引きと裁判の最中、首相時代に棚上げされていた刑事裁判の一つであるメディアセットでの脱税疑惑について、最高裁判所が禁固1年と2年間の公職追放を命じる判決を確定させる[20]。禁固刑については高齢を理由とする社会奉仕活動への代替が認められており、また公職追放については慎重な運用が求められる点から最高裁判所での再審理が予定されるなど、当初はベルルスコーニにとってそれほど差し迫った事態とは考えられていなかった。

しかしタンジェントポリによる汚職追放を背景にした政界再編の際、政治改革の一環として成立した「反汚職法」の存在が命取りとなった。同法で「明確に汚職行為が認められた政治家は国会議席を剥奪される」と定めており[21]、野党はおろか大連立政権内でも公職追放を待たずベルルスコーニを政界から追放すべきとする動きが広がっていった。元々、免責を求める策動に批判的だったレッタ首相がこの動きに乗じると、追い詰められたベルルスコーニは自党から選出した閣僚に辞任を命じた[22]。表向きは「付加価値税の引き上げ反対に対する抗議」とされたが、免責に絡んだ政治行動である事は明らかだった[22]

9月28日、党首命令に従って自由の人民出身の閣僚5名が辞任を表明したが、形振り構わず党を私物化するベルルスコーニにこれまで免責運動を支持して来た党内でも不満が噴出した[21]。辞任を受け入れた閣僚の一人で、ベルルスコーニの新たな後継者とされているアンジェリーノ・アルファノ副首相兼内務大臣は「ベルルスコーニ党首の政治思想は彼以外の人間によって引き継がれるべきだ」と述べた。一方、レッタ首相は閣僚辞任に怯まず、議会での信任を問うべく内閣信任投票を自ら上院・下院に提案した[22]。また9月30日には上院でベルルスコーニに対する議員資格の剥奪勧告についても投票を行う事が決定された。

ここでも再びベルルスコーニは政党を私物化し、全所属議員に不信任へ投票するように党議拘束を行った。だが投票直前になってロベルト・フォルミゴーニ議員ら25名の上院議員が自由の人民からの離党を宣言、レッタ政権支持を表明する造反劇が発生した[23]。フォルミゴーニ上院議員に追随して投票でレッタ政権支持に投票するとした議員は40名に上り、不信任案可決は不透明な状態になった[24]。ベルルスコーニは自派抜きの内閣信任が可決して面目を失う展開を恐れ、投票日の10月2日に一転してレッタ首相支持を表明する屈辱を強いられた[25][26]。投票では圧倒的多数で内閣信任が可決し、再組閣や解散総選挙などの巻き返しを狙っていたベルルスコーニの計画は頓挫した[25]

10月4日、上院で開かれた公聴会は予定通りベルルスコーニに対する議員資格の剥奪勧告についての投票を行う事を決定した[27][28]。これによって上院本会議で議員資格の剥奪が審議される見通しとなった[29]。追い打ちを掛けるようにナポリ地方検察局による議員買収疑惑も起訴が決定[30][31]、他にミラノ地方検察局の買春疑惑についての裁判も継続していた。党内ではアンジェリーノ・アルファノ元副首相らを中心とする若手グループが創設者のベルルスコーニとその一派と距離を置き始め、先のフォルミゴーニ派の離脱に続く党内対立が表面化した[26][32][33]
公職追放

一旦は回復していたベルルスコーニの政治的影響力は度重なる裁判、議員資格の剥奪勧告、党内の分裂などで急速に失われていった。政治基盤である自由の人民は既に旧国民同盟派の議員・党員が離脱しつつあったが、自らが結成した旧フォルツァ・イタリア派の議員まで離党の動きを見せつつあった。ベルルスコーニは自由の人民を解散してフォルツァ・イタリアを再結党する事を党執行部に提案し、党内での仕切り直しを図ろうとした。しかし党内の反対派はレッタ大連立政権への協力を条件に出し、依然として保身を第一に考える自身への不満が表面化する結末となった。

2013年11月15日、ローマで開かれる党大会を前に、ベルルスコーニとの交渉が物別れに終わったとしてアルファノ元副首相を中心とする反ベルルスコーニ派議員は院内会派新中道右派」(NCD)を結成、党解散後の独自行動を伺わせた[34]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:135 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef