シルヴィオ・ベルルスコーニ
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労働騎士勲章(英語版)を1977年に授与されており、支持者からはイル・カヴァリエーレ(Il Cavaliere)と呼ばれる。

スポーツ界においてサッカーに情熱を注ぎ、母国の名門クラブ・ACミランのオーナー兼会長を長きにわたり務めた。就任当初に低迷していたチームを立て直し、1990年代に黄金期を迎え世界屈指の強豪クラブに昇華させている[3]
概要

ベルルスコーニは元々は実業家であり、戦後イタリアで1960年代から1980年代にかけて建設業と放送事業で財を成した企業家であった。特に後者については「イタリアのメディア王」と呼ばれるほどの権勢を誇り、国内の民放局を殆ど独占しているとされている。またこの頃、反共団体で多くのテロリズムにも関わった「ロッジP2」の会員となっている。

90年代から始まったタンジェントポリ後の政界再編ではフォルツァ・イタリアを結党、有力政治家として冷戦後の政界を主導した。ベルルスコーニ政権はファシスト政権の独裁者ベニート・ムッソリーニ、および1900年代前半に5期にわたり王国宰相を務めたジョヴァンニ・ジョリッティに次ぐ長期政権をイタリア政界で樹立した。それ以前は共和制移行後、最初に首相となったアルチーデ・デ・ガスペリが戦後イタリアにおける長期政権として知られていたが、ベルルスコーニの首相在職期間はガスペリを上回っている。

政界再編の混乱で一挙に政権を獲得したが短命に終わった第一次政権(1994年-1995年)、政権奪還後の第二次政権(2001年-2006年)、そして二大政党制を迎えての第三次政権(2008年-2011年)と三度の政権での首相経験年は9年を超える。また、サミットを議長国首脳として3回主催した唯一の首脳でもある。

ベルルスコーニは自らの事業の一角を占める新聞・テレビ・インターネットなどを通じて有利な政治活動を行っているとしばしば非難を受けている。また首相としての権限を使用してメディア統制を進めたともされており、DDL intercettazioni(通信傍受法)可決に反対してイタリア語版ウィキペディアが一時更新を停止する事件が起こっている。汚職疑惑、性的スキャンダルなどの問題行為も取り沙汰されている[4]
経歴
生い立ち

1936年に、王政時代のイタリア王国ロンバルディア州ミラノ市のイゾラ・ガリバルディで、中流家庭の[5]ルイジ・ベルルスコーニ (Luigi Berlusconi) とローザ・ボッシ (Rosa Bossi) との間の長男として生まれた。兄弟姉妹にパオロ・ベルルスコーニ、フランチェスカ・ベルルスコーニらがいるとされている。父親は小学生の時にパペット劇団を結成して収入を得るなど、子供のころから商才は際立っていた[5]。母親はピレリの役員秘書を務め、また父親はその後ラジーニ銀行の取締役になった。

サレジオ会系の寄宿学校「リチェオ・サンタブロージオ」在学中に第二次世界大戦と王政廃止を経験している。卒業後にミラノ大学法律学を学び、広告業における法律を専攻分野にして1961年に卒業資格を得ている。学校での成績は「優等」として記録されているが、一方で徴兵制であった当時のイタリアで兵役義務を回避したとのスキャンダルが報道された事もある[6]。在学中は音楽に熱中しており、コントラバス奏者のコミュニティに参加していた。このグループでの友人知人は後にベルルスコーニの事業に関わる人脈となっている。現在でも音楽に対する嗜好は変わらず、自身が保有するサッカークラブACミランの応援詩を自ら作曲したりしていた。
企業家として詳細は「ミラノ・ドゥーエ」および「フィニンベスト」を参照

大学在学中より、父親が勤務する銀行の顧客であるピエトロ・カナーリが経営する建設会社で働いていたが、大学卒業後に独立する。まずは大戦後のマーシャルプランによる復興を経て経済成長が進むイタリアで、父親が勤務するラジーニ銀行とカナーリからの融資を受けて複数の建設会社を設立、人口増による住宅事業を請負って会社を成長させた。

特に再建が進むミラノ市で住宅供給計画「ミラノ・ドゥーエ」を発表、隣接するセグラーテ市をミラノ市のベットタウンとするべく新たに1万500棟のアパートを建設した。「ミラノ・ドゥーエ」計画は大成功に終わり、膨大な住宅地を販売したベルルスコーニの建設会社は飛躍的な成長を遂げる。

しかし、当初立ち上げた複数の建設会社では代表には就任せず、常に縁戚の者を形だけの代表に据えているうえに、その後も長年自分が代表に就任することはなかった。さらに父親が取締役を務め、自らも多額の融資を受けたラジーニ銀行は、サルヴァトーレ・リイナベルナルド・プロベンツァーノらのマフィアが多額の預金をしていることが当局の調査により明らかになっていることから、マフィアのマネーロンダリングに関係していたのではないかという疑惑を持たれている。

なお、1965年に最初の妻となるカーラ・エルビアと結婚、長女マリアと長男ピエル・シルヴィオを儲けた。建設業界での成功を足がかりに今度は成長しつつあったメディア業界への事業進出に意欲を見せる。1973年、ベルルスコーニは地元ミラノにケーブルテレビ局「テレミラノ」を開局する。当初は小規模なローカル放送であったが、建設業で得た資金を投じる形で幾つかの放送局を購入して会社組織を整え、1977年に地上波放送の免許を取得してより幅広い層に番組を放送する[7]。1978年、所有する複数の企業を統合してフィニンベスト社を設立、建設業とメディア業の事業管理を一本化した。

建設業での成長に加えて「テレミラノ」も有力な地方放送局として収益を上げていくようになり、1983年までの5年間にフィニンベスト社が公表した収益は1130億リラであった。娯楽産業を新たな柱とすべく1980年代はメディア面を強化する事に熱意を注ぎ、「テレミラノ」のような地方放送局を次々とフィニンベスト社の放送部門「メディアセット」の傘下におさめて独自の全国放送ネットワークを確立した。これは全国放送権は国営放送(RAI)のみが保持するとしたイタリア共和国憲法への明確な違反行為であったが、ベルルスコーニは意に介する事もなく事業拡大を続けて「カナーレ5」「イタリア1」「レーテ4」などの大手民放局すら子会社とした。

独自の全国放送網、大手民放局の相次ぐ子会社化によって彼は建設業界の寵児から転じて「イタリアのメディア王」として知られるようになった。1984年10月16日に裁判所が全国放送権に関する違反から放送停止命令を出すが、政界への働きかけによって10月20日にイタリア社会党書記長であったベッティーノ・クラクシ首相から民放として初めて全国放送を許可され、メディア方面での事業は磐石となった。西ドイツフランススペインなど周辺国の放送局への買収も進めており、スペインのテレシンコ社は同国の三大民放の一つに成長している。
政界進出
第一次・第二次政権詳細は「en:Policies of Silvio Berlusconi」、「シルヴィオ・ベルルスコーニの政界活動」、および「フォルツァ・イタリア」を参照

ベルルスコーニの台頭は冷戦終結直後の1992年から始まった大規模な汚職事件捜査、およびそれに関連する既存政党の崩壊による政界再編(タンジェントポリ)によって始まった。フォルツァ・イタリア結党の頃(1994年)

ベルルスコーニは実業家としての豊富な資金力と人脈を背景に新政党「フォルツァ・イタリア」を結成、政界再編で極めて重要な役割を果たした。彼は自由主義資本主義保守主義キリスト教民主主義などをスローガンに掲げて、中道右派系の議員を糾合する事に成功した。フォルツァ・イタリアは同じく再編で台頭した極右政党「国民同盟」(旧共和ファシスト党)、地域政党の連合体「北部同盟」などと連立を組んで第一次ベルルスコーニ政権を樹立した。僅か数年で大物政治家たちを押し退けて首相になった事は大きな話題を集めたが、国民同盟と北部同盟の対立により政権は一年足らずで崩壊した。ACミランの会長時代(1996年)

1996年4月に臨時開催された首相選挙でベルルスコーニは再起を図ったものの存在感を発揮できず、逆に左派勢力を糾合したロマーノ・プローディに敗北した。しかしその後も野党勢力の一角として政権奪回への意欲は捨てず、2001年に入念な根回しの末に野党連合「自由の家」を結成して総選挙に勝利を収めた。二度の首相指名を含む第二次ベルルスコーニ政権は前回の反省を踏まえて連立政権内の権力バランスに注意を払い、5年間の長期政権を維持した。特に移民問題について強硬路線を採った事が連立政権で特徴的な行動であった。
第三次・第四次政権欧州人民党の党大会で来賓として演説するベルルスコーニ(2009年)

2006年4月の総選挙で左派連合を単独政党「イタリア民主党」に纏め上げたロマーノ・プローディに二度目の敗北を喫し、政権は終焉を迎えた。ベルルスコーニは単一政党となった反対勢力に対抗するべく、自らもフォルツァ・イタリア国民同盟を母体とした大政党の結成を目論んだ。当初、これは周囲の支持を得られずに暗礁へ乗り上げていたが、国民同盟書記長ジャンフランコ・フィーニとの党首合意で状況を一転させた。かくして北部同盟を除く自由の家の構成政党は新党「自由の人民」(自由国民党)を結成して2008年に第三次ベルルスコーニ政権を樹立した[8]


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