シルヴィオ・ベルルスコーニ
[Wikipedia|▼Menu]
彼は自由主義資本主義保守主義キリスト教民主主義などをスローガンに掲げて、中道右派系の議員を糾合する事に成功した。フォルツァ・イタリアは同じく再編で台頭した極右政党「国民同盟」(旧共和ファシスト党)、地域政党の連合体「北部同盟」などと連立を組んで第一次ベルルスコーニ政権を樹立した。僅か数年で大物政治家たちを押し退けて首相になった事は大きな話題を集めたが、国民同盟と北部同盟の対立により政権は一年足らずで崩壊した。ACミランの会長時代(1996年)

1996年4月に臨時開催された首相選挙でベルルスコーニは再起を図ったものの存在感を発揮できず、逆に左派勢力を糾合したロマーノ・プローディに敗北した。しかしその後も野党勢力の一角として政権奪回への意欲は捨てず、2001年に入念な根回しの末に野党連合「自由の家」を結成して総選挙に勝利を収めた。二度の首相指名を含む第二次ベルルスコーニ政権は前回の反省を踏まえて連立政権内の権力バランスに注意を払い、5年間の長期政権を維持した。特に移民問題について強硬路線を採った事が連立政権で特徴的な行動であった。
第三次・第四次政権欧州人民党の党大会で来賓として演説するベルルスコーニ(2009年)

2006年4月の総選挙で左派連合を単独政党「イタリア民主党」に纏め上げたロマーノ・プローディに二度目の敗北を喫し、政権は終焉を迎えた。ベルルスコーニは単一政党となった反対勢力に対抗するべく、自らもフォルツァ・イタリア国民同盟を母体とした大政党の結成を目論んだ。当初、これは周囲の支持を得られずに暗礁へ乗り上げていたが、国民同盟書記長ジャンフランコ・フィーニとの党首合意で状況を一転させた。かくして北部同盟を除く自由の家の構成政党は新党「自由の人民」(自由国民党)を結成して2008年に第三次ベルルスコーニ政権を樹立した[8]2010年

2010年、旧・国民同盟の書記長で政治的後継者と明言していたジャンフランコ・フィーニ下院議長が「イタリアのための未来と自由」(LFI)を分派して野党に転じた事で政権基盤が崩れる。2011年には自身の汚職に対する追及が本格化し、ミラノ地裁から未成年者売春罪と職権乱用罪で起訴された[9]。更にギリシャ危機による欧州経済の不安定化によりギリシャ・ポルトガル・スペイン・フランスといった南欧諸国と並んでイタリアが経済不安に陥った。苦境に立たされたベルルスコーニは欧州連合に公約した国家財政緊縮(健全化)法案のイタリア議会下院可決後に退陣すると発表、同時に政界引退を表明した[10]

退陣後は挙国一致内閣として経済学者など実務の専門家を中心としたマリオ・モンティ政権が成立、急速な緊縮財政や雇用制度の企業側に立った改革などが実施された。モンティ改革は欧州連合からは高く評価を受けたが、痛みを受ける側である国民の中流層・下流層からは次第に「改革疲れ」が見受けられるようになっていった。
国政復帰 

2012年12月8日、こうした状況下を見てベルルスコーニは前言を翻して2013年に実施される総選挙への出馬を表明し[11]、「改革の終了」をスローガンに掲げて戦う事を宣言した。国民の間ではベルルスコーニの無責任な政治行動への反感以上にモンティ政権に対する不満が積み重なっていたため、支持率調査では予想以上の追い上げを見せた。同時期に同じく反モンティを掲げて設立された五つ星運動が若年層を中心に支持を集めており、モンティ政権支持を表明した民主党を含めて二大政党時代から三大政党時代へと移り変わった[12]。2012年12月17日、ジャンフランコ・フィーニと同じく元国民同盟派の議員であったイグナツィオ・ラ・ルッサ(英語版)元国防相が「イタリアの同胞・国民中道右翼」(FdI-CN)を結党して離党するが、ベルルスコーニの要請で自由の人民との選挙連合には留まった。

総選挙で自由の人民は議席数こそ減らしたが第3党として大政党の地位を守り抜き、党の空中分解すら囁かれた退陣直後の予測からすれば大きく健闘する形となった。加えて先の五つ星運動(第2党)とモンティ改革支持を表明しているイタリア民主党(第1党)が仲違いしている点も有利に働き、ベルルスコーニは政治的影響力を回復させている。首相職と同じく任期中の免責が認められている大統領職への鞍替えを狙い、イタリア民主党に「対ポピュリズム五つ星運動)」で右派・左派大連立を持ち掛けつつ、反モンティ改革で五つ星運動と連帯を図るなど積極的に揺さぶりを掛けた[13]。また2度の退陣を自身に経験させた政治的宿敵であるロマーノ・プローディ元首相の大統領選出に反対する行動も見せた[14]

最終的に自身の大統領当選は成らなかったものの、イタリア民主党と自由の人民による大連立は実現し、側近を含めた自派議員を閣僚職に送り込む事に成功した[15]。政府組織に影響力を維持した事で今後のベルルスコーニに対する免責問題が浮上する事はほぼ確実視されており、早くも自由の人民から選出された複数の大臣がベルルスコーニへの捜査を政治的策略とする政治大会や抗議デモを開催するなど、大連立政権への圧力が高まった[16]。イタリア民主党側から選出されたエンリコ・レッタ首相は「閣僚が閣外の問題に関与すべきではない」と不快感を表明していた。移動中のベルルスコーニ(2012年)

一方、政治的駆け引きと並行して懸案事項であるベルルスコーニへの捜査や裁判も進展しており、ナポリ地方検察局は捜査が継続されていた事件の一つである「ロマーノ・プロディ政権への陰謀疑惑」(議員買収疑惑)で一度却下された起訴を再申請した[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:135 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef