シルベスター・スタローン
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イタリア系の父はプッリャ州ジョーイア・デル・コッレの出身であり、1930年代にアメリカに移住した[9][10]。アメリカ人の母はフランス(ブルターニュ)とアシュケナジムの血を引く[11][12][13][14][15]。弟は俳優でミュージシャンのフランク・スタローン

シルヴェスターが生まれる際の分娩中の困難により、2つの鉗子が使用された。鉗子の使い方を誤ったため、神経が傷つけられシルヴェスターの顔に麻痺を引き起こした[16][17]。この事故により顔の左下方(唇、舌、顎の一部)に麻痺が残り、のちに特徴として知られるようになるうなるような表情と舌足らずな発音が引き起こされた[17][18]。結果として少年時代はいじめを受け、ボディビルディングと演技に打ち込むようになった[19]

シルヴェスターは洗礼を受けたカトリックである[20]。1950年代初頭、父親は美容学校を開くために家族とワシントンDCに移った。1954年、母親はバーベラズという名前の女性用ジムをオープンした[21]
教育

スタローンはノートルダム・アカデミーとフィラデルフィアのリンカーン高校に在籍した[22]。シャーロット・ホール・ミリタリー・アカデミーにも在籍し、その後マイアミ・デイド大学に入学した[23]

スタローンは1965年9月?1967年6月までの2年間をスイスにあるアメリカン・カレッジ・オブ・スイッツァランドで過ごした。アメリカに帰国したスタローンは1967年?1969年までマイアミ大学で演劇を専攻した[24]

スタローンはそれまでの演技と人生経験を、卒業までに不足している単位の互換として認めるように要求し、1999年にマイアミ大学の学長から学士号(美術)が授与された[25]
映画と舞台のキャリア
初期の役からヒットまで: 1968年?1976年

1969年まで彼はマイク・スタローンの名義で舞台に出演した。1970年からはシルヴェスター・E・スタローンの芸名を使うようになった。マイアミ大学に在籍しながら、スタローンは1968年に撮影されたドラマ『That Nice Boy』(別題『The Square Root』)に出演した[26][27][28]

スタローンはソフトコアポルノ映画『The Party at Kitty and Stud's』(1970年)で初めて主演を務めた。2日間の撮影で200ドルの報酬だった[29]。アパートから追い出され数日間ホームレス生活をしていた絶望からこの映画に出演したと、スタローンはのちに説明している。スタローンはまた、映画の出演者募集の広告を見る前、ニューヨークのポート・オーソリティ・バスターミナルで3週間寝泊まりしていたと話している。彼によると、「追い詰められて出演するか強盗するかしかなかった - どん底まで追い詰められていた」ということである[30]。この作品は数年後に『Italian Stallion』として、スタローンの新たな名声(スタローンの『ロッキー』作中のニックネームから)を利用した改題が成された。スタローンはまた、エロチックなオフ・ブロードウェイの舞台作品『Score』にも出演した。この作品はマルティニーク・シアターで1971年10月28日から11月15日まで23回上演され、1974年にはラドリー・メツガーによって映画化された[31]

ニューヨークに移住したスタローンは恋人のサーシャ・チャックとアパートメントをシェアした。チャックは女優志望で、ウェイトレスとして働きながら家計を支えた[32]。この時期、スタローンは動物園の清掃員、映画館の案内係など様々な仕事をこなした。チケットを転売したことで映画館を解雇された。彼は地元の図書館に通うことで脚本のスキルを磨きエドガー・アラン・ポーの作品に興味を持つようになった[33]

1972年、スタローンは俳優のキャリアを諦める瀬戸際に立たされていた。『ゴッドファーザー』のエキストラ役を得ることができず、のちに最悪の時期だったと回想している[34][35]。代わりに、バーブラ・ストライサンド主演の別のハリウッドヒット作『おかしなおかしな大追跡』に出演した。しかし2つの出演シーンでほとんど映っていない。

スタローンは友人から声をかけられて舞台に出演したが、それを見に来ていたエージェントが『ブルックリンの青春』のスタンリー役に合うのではないかと考えた。この映画は予算の問題で1972年から1974年まで撮影が続いた[36]。1973年中頃、スタローンは『No Place to Hide』で宝石店店員に恋をするニューヨーク基盤の都市テロリストに関わる男を演じて初めて正当な主演作品を手に入れた。この映画はのちに『レベル』と改題され、この第2バージョンではスタローンはスターとして扱われている。1990年、この映画はオリジナル作品からのアウトテイクを入れて再編集され新たに撮影された映像とともに吹き替えもやり直され、(ウディ・アレンの『What's Up, Tiger Lily?』のように)『A Man Called... Rainbo』というタイトルでパロディ作品となった。

スタローンのその他の出演は脇役が多く、『M★A★S★H マッシュ』(1970年)にはテーブルに座る兵隊役でクレジットなしで出演、『Pigeons』(1970年)にはパーティのゲスト役、『ウディ・アレンのバナナ』では地下鉄のチンピラ役、サイコスリラー『コールガール』ではクラブで踊るエキストラ役、ジャック・レモンの映画『二番街の囚人』では若者役で登場した。『二番街の囚人』においては、レモンのキャラクターがスタローンのキャラクターをスリと勘違いし、後を追いかけ、タックルして金を奪う。1974年には『ブルックリンの青春』が公開され、スタローンは2番目にクレジットされた[17]。1975年、スタローンは『さらば愛しき女よ』、『ビッグ・ボス』、『デス・レース2000年』で助演を務めた。テレビドラマの『ポリス・ストーリー』や『刑事コジャック』にも出演した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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