東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路は「オアシスの道」と呼ばれる[16][13]。このルートをリヒトホーフェンが「シルクロード」と名づけた。洛陽や長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る[16][13]。
ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン[注釈 3]以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、唐の時代のおよそ7世紀?10世紀頃シルクロード交易を支配していたといわれている。
西域南道 (漠南路)
タクラマカン砂漠の南側を通るルート[16][17]。敦煌からホータン、ヤルカンドなど崑崙山脈北側のオアシスを辿って、カシュガルからパミール高原に達する[17]。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。5世紀に法顕は西域南道を通ってインドに渡った[17]。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので[18]、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。現在[いつ?]のG315国道は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。
天山南路(西域北道, 漠北路, Northen Silkroad)
天山山脈の南側を通るルート[16][17]。敦煌からコルラ、クチャ、アクスを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至る[17]。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが[17]、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。現在[いつ?]トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。
天山北路
天山山脈の北側を通るルート[16][17]。敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てスイアブに至る[17]。紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000 mとされるパミール高原を越える必要もない。