シルウェステル2世_(ローマ教皇)
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972年末か973年初頭にランスに到着したジェルベールは教会学校で論理学修辞学を学んだのち、教師として活躍する。生徒には、のちのフランス王ロベール2世やシャルトルのフルベールなどがいる。981年には皇帝オットー2世の主催で開かれたラヴェンナでの討論会に出席した。論敵を下したジェルベールは皇帝に認められ、983年に知の集積地の一つであったボッビオ修道院長に任命される。しかし職務に忙殺され、学問に専念できないことに失望した。また、前修道院長ならびその一派との間に確執が生まれ、パヴィア司教ピエトロ(のちの教皇ヨハネス14世)が仲裁を申し出たが、それを拒絶している。オットー2世が983年12月7日に没したのちは、ランスに戻って教育活動を再開させた。

オットー2世の後継争いは、3歳で王位を継承したオットー3世とその母で後見人のテオファヌと、バイエルン公ハインリヒの間でおこなわれ、ハインリヒ側に西フランクロテールが付いた。ランス大司教アダルベロンはオットー3世の側に立ち、ユーグ・カペーやテオファヌらと連絡を取りつつ、オットー3世とロテールとの和解を取り持った。ジェルベールはアダルベロンの活動を補佐したとされる。その後、ロテールの死去(986年3月6日)と ロテールの子ルイ5世の事故死(987年5月21日)によりカロリング家が断絶すると、アダルベロンの執り成しでユーグ・カペーがフランス王に推挙された。

989年にアダルベロンが死去すると、アダルベロンはジェルベールを後継者に指名していたが、カロリング家残存勢力懐柔のためユーグ・カペーはロテールの庶子アルヌルフを大司教に任命し、ジェルベールは教師を続けることとなる。しかしアルヌルフはユーグ・カペーを裏切り、叔父のロレーヌ公シャルルと結託してランとランスを占領した。991年にユーグ・カペーに敗れたアルヌルフとロレーヌ公シャルルはオルレアンに幽閉され、サン・バール教会会議でアルヌルフを罷免、後任としてジェルベールがランス大司教に選ばれる。
教皇就任へ

フランス地方教会主義の独走に、教皇ヨハネス15世はジェルベールを破門することで対抗した。この破門についてはフランス王太子ロベールが開催したシェル教会会議で無効とされた(994年)。ヨハネス15世によるムーゾン教会会議(995年)にジェルベールは単独出席して正当性を主張するも、決着は付かなかった。

教皇に直接主張しようと考えたものの、ヨハネス15世がローマ有力貴族クレッシェンティウス2世によって追放されてしまい、ジェルベールは皇帝オットー3世の居城マクデブルクに赴き、皇帝のローマ進軍に随行した。この時からジェルベールはオットー3世の家庭教師を務めることとなる。

ローマ入城前にヨハネス15世は熱病で死亡した。皇帝は祖父オットー1世の曾孫ブルーノをグレゴリウス5世として教皇に就任させ(996年5月3日)、ローマ入城後グレゴリウス5世から帝冠を授けられた(同年5月21日)。戴冠式から数日後に開催された教会会議において、アルヌルフのランス大司教座への復帰が議決され、またジェルベールは大司教座の簒奪者として非難された。

ユーグ・カペー死去(996年10月23日)ののちフランス王となったロベール2世は、ブロワ伯ティボー2世の未亡人ベルトと結婚したが、ロベールとベルトは又従姉弟だったため、グレゴリウス5世は結婚を認めず破門した。対してロベール2世は997年にアルヌルフをランス大司教に復位させ、アルヌルフから結婚の認可を得ることとした。その翌998年にジェルベールはオットー3世からラヴェンナ大司教の座を与えられ、また皇帝の文書局長として皇帝の助言者となる。ラヴェンナ大司教としてシモニアの禁止など教会改革を進め、またロベール2世を非難する勅書に教皇名の次に署名した。

999年にグレゴリウス5世が死去すると、オットー3世から後任にジェルベールが推挙され、999年4月2日にシルウェステル2世として教皇に就任する。シルウェステルの名は、初のキリスト者皇帝コンスタンティヌス1世に洗礼を施したシルウェステル1世になぞらえてのものである。

教皇シルウェステルは、オットー3世の助言者として神聖ローマ帝国の政策に関わりつつ、教会の腐敗を取り除くための教会改革を続けた。またハンガリー王イシュトヴァーン1世への王冠の授与など東欧世界への布教にも努めた。


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