台地上の開発は近世以降、特にサツマイモが栽培されるようになってから急速に進展し、ダイズ、アブラナ、陸稲、アワ、ソバ、ムギなども栽培されるようになった。特にサツマイモ、ダイズ、アブラナはそれぞれ炭水化物、タンパク質、脂肪の三大栄養素を受け持ち、シラス台地の三大作物と呼ばれるほどに普及した。農民による開発に加えて武士による開発も盛んに行われ、飢饉が発生した地域から台地上への移住がしばしば行われた。開発においては水の確保が課題であり、特に笠野原型シラス台地においては深い井戸を掘ったり、馬で水を運び上げたりしなければならなかった。他の型のシラス台地においても水源は限られており、水の運搬や水利権の調整などの苦労があった。十三塚原の茶畑
明治維新以降は大規模な開発が行われるようになり、第二次世界大戦後にはダムなどの水源を利用した灌漑も行き渡るようになった。商品性の低いダイズやアブラナに代えてダイコン、ニンジン、キャベツなどの野菜や茶などが栽培されるようになった。
シラス台地の崖は容易に掘削することができるため、多くの洞穴(ガマ)やトンネルがつくられた。洞穴は食糧の貯蔵、農具の保管、炭焼き、仏堂、防空壕などに利用されてきた。トンネルは用水路として利用され、地元では貫(ヌキ、ヌッ)と呼ばれる。
トンネルを農業用水として使うなどした開墾の工夫は、有明農業歴史資料館(鹿児島県志布志市)で展示されている[4]。
シラス台地上は台風の影響を受けやすく中心市街地から離れており水源も少なかったことから、かつては住宅地として不向きとされていた。しかしながら昭和30年代以降は家屋の強度が高くなり、自家用車や上水道が普及したことから、宅地開発が始められた。1965年(昭和40年)に完成した鹿児島市の紫原団地を皮切りに住宅地として利用されるようになった[5]。 シラス台地が分布する地域は江戸時代以前において薩摩藩の領地と重なっており、この特殊な地形が薩摩藩の独自性を醸成する素地になったと考えられている。シラス台地へ登る急坂は薩摩藩の郷中教育における登山鍛錬の場として利用された。 シラス台地の中には山城として利用されたものも多い。台地を囲む急崖が防壁の役割を果たすことに加え、中世以前においては不毛の台地上に道がなく兵を進めることが困難という側面もあった[6]。代表的な山城として知覧城、高山城、志布志城がある。
文化
脚注[脚注の使い方]^ a b 寺園貞夫 「シラスの堆積とその浸食地形」 『シラス台地研究』
^ 桐野利彦 「用語解説」 『シラス台地研究』
^ 有村智「南九州のシラス地域の湧水分布」『シラス台地研究』
^ 【探訪サイエンス】有明農業歴史資料館 開墾技術に見る先人の知恵
^ 矢崎義昭「シラス台地の宅地化」『シラス台地研究』
^ 『シラス地帯に生きる』
参考文献
佐野武則 「かごしま文庫37 シラス地帯に生きる」 春苑堂出版、1997年、ISBN 4-915093-44-1
シラス台地研究グループ編・発行 「シラス台地研究」 1980年
横山勝三 「シラス学 ? 九州南部の巨大火砕流堆積物」 古今書院、2003年、ISBN 4-7722-3035-1
関連項目
シラス (地質)
コラ (地質)
地下侵食