ショーン・コネリー
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『007は二度死ぬ』(1967年)のロケで訪日した際、記者会見でボンド役からの引退を表明して国内外で驚かれた[12]。その後、コネリーが希望する映画2作の製作費を負担するという条件をユナイテッド・アーティスツが受け入れたことで[13]、1971年の『007 ダイヤモンドは永遠に』でボンド役に復帰した。コネリーが007シリーズ再出演の条件とした2本のうち、実現したシドニー・ルメット監督『怒りの刑事』(1972年)では感情の起伏が激しい刑事を演じた。その前年のルメット監督作『ショーン・コネリー/盗聴作戦』では犯罪者役だった。日本の映画監督緒方明はこの時期のコネリーについて、ボンドのイメージから離れようと苦闘していたが、ヒーローらしさが出てしまっていたと評している[12]

1983年、女優のタリア・シャイアらと組んで自主製作したボンド映画『ネバーセイ・ネバーアゲイン』でもボンドを演じ、計7本の作品でボンド役を務めた。この映画はPSO(プロデューサーズ・セールス・オーガニゼーション)が世界に販売、ワーナーが北米配給[注 1]をした。これらはすべて成功をおさめ、AFIから"アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100"の3位に選ばれている。また、コネリーは自己紹介の台詞「The name is Bond, James Bond.」を初めて使い、以来2作を除く[注 2]全作で使われるようにした張本人でもある。

ボンド、或いはボンドのパロディ的役どころ(例:『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』『ザ・ロック』等)を演じることには積極的であるが、プロデューサーであるアルバート・R・ブロッコリハリー・サルツマンとの仲は芳しくなく、「ボンドを殺したい」とまで言い放つなど[13]、シリーズへの復帰には消極的であった。直接の後任俳優の一人であるロジャー・ムーアとは無名時代からの友人であり、ともに共演を望んだほどの親友でもあった。
ボンド役引退後

『007』シリーズ以外にもコネリーは様々なジャンルの映画にも意欲的に出演し、アルフレッド・ヒッチコック作品の『マーニー』やオードリー・ヘプバーンと共演した『ロビンとマリアン』など多くの作品に出演した。1987年には『アンタッチャブル』で主人公を助ける警官役の演技が称賛され、アカデミー助演男優賞ゴールデングローブ賞 助演男優賞を受賞した。1998年にブロードウェイで『'Art'』を製作し、トニー賞 演劇作品賞を受賞する。

その後、コネリーは『ロード・オブ・ザ・リングシリーズ』のガンダルフ役のオファーを受けるも、スクリプトを理解できなかったため断った[14]。受け入れていれば4億5000万ドルもの報酬を受け取れていた。同様の理由で『マトリックス』のアーキテクトも断っている。

コネリーは2006年にアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI:American Film Institute)の生涯功労賞を受賞したのを機に、俳優業引退を宣言した[15]

その後は引退を楽しみ[16]、2007年に1989年の『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で演じたヘンリー・ジョーンズ役で『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』への出演オファーを受けたが、検討した結果出演しないと正式に発表[17]、同作ではコネリーが演じたヘンリーは既に死亡したという設定になり、写真のみが劇中で使用された。2010年、『007 スカイフォール』で監督のサム・メンデスも、当初キンケイド役にコネリーを考えていたが、実現はしなかった[18][19]

晩年は認知症を患っており、苦しんでいたことが妻によって語られている[20][21]。コネリーは2020年10月30日深夜から31日早朝にかけて滞在先の大西洋の島国バハマの自宅で没した[1][22][23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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