『シュルレアリスム革命』誌は、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」が掲載された1929年12月15日付の第12号をもって終刊となった。この時点までに、運動内部での方針の不一致や対立によって脱会する者、あるいはブルトンに除名された者が少なくなかった。スーポー、デスノス、レリス、アルトーらであり、彼らは、アラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレらが1927年にフランス共産党に入党したのに対して、政党に関わることは拒否した[14]。こうして、共産主義への傾倒を深めたシュルレアリストは、『シュルレアリスム革命』誌終刊翌年の1930年に後続誌『革命に奉仕するシュルレアリスム(フランス語版)』誌を創刊した。だが、この雑誌は1933年にわずか6号で終刊となった。内部対立が激化したからであり、その一因は、アラゴンが社会主義リアリズムに転向したことであった。運動自体は左傾化したものの、シュルレアリスムが文学・芸術革命に留まるか、社会革命に発展させるか、ファシズムが台頭した第二次世界大戦前夜にあって状況は一層複雑であった[15][16]。
また、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の後続誌で、シュルレアリスムの美術雑誌としても重要なのは『ミノトール(フランス語版)』であった。アルベール・スキラ(フランス語版)を発行人、テリアード(フランス語版)を美術主幹として1933年6月に創刊された同誌は、1937年の第10号からブルトン、エリュアール、デュシャンらが編集委員として参加し、事実上、シュルレアリスムの雑誌となり、オーストリアの画家ヴォルフガング・パーレン、ドイツの人形作家・写真家ハンス・ベルメール、ベルギーの画家ポール・デルヴォー、チリの画家ロベルト・マッタ、スイスの彫刻家アルベルト・ジャコメッティらの作品が掲載された[13][17]。
第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツがフランスを占領すると、多くのシュルレアリストが米国に亡命した。これは、フランスのユダヤ人、反ナチ運動家らを米国に疎開させるために結成された緊急救助委員会 (ERC) によって派遣されたヴァリアン・フライ(フランス語版)の尽力によるものであり[18]、エルンストやデュシャンのように、美術品蒐集家・資産家のペギー・グッゲンハイム(フランス語版)から個人的な支援を受けて渡米したシュルレアリストもいた[19]。彼らは戦時中にニューヨークを拠点として活動することになり、米国の画家らもシュルレアリスムの運動に参加した。アメリカで広がりを見せたシュルレアリスムは、抽象表現主義の誕生において重要な役割を果たすことになった[20]。
1946年に亡命先の米国から帰国したブルトンは、1947年7月7日から9月30日までパリのマーグ画廊(フランス語版)で第6回国際シュルレアリスム展を開催した[13]。この展覧会には、デュシャン、エルンスト、タンギー、ミロ、アルプ、ピエール・ロワ、パウル・クレー、ヴィクトル・ブローネル、ヴォルフガング・パーレン、ハンス・ベルメール、ロベルト・マッタら戦前からのシュルレアリストのほか、ヴィフレド・ラム、アーシル・ゴーキー、マルセル・ジャン(フランス語版)、フレデリック・キースラー、ケイ・セージ、ドロテア・タニング、トワイヤンらの作品が多数展示され、シュルレアリスムの大規模な回顧展となった[21]。
1966年にブルトンが死去した。これにより、シュルレアリスムの詩人ジャン・シュステル(フランス語版)が、1969年に『ル・モンド』紙に「第四のうた」と題する記事を掲載して運動の終結を宣言した[22][23]。この宣言は、日本でも「第四のうた - 宣言の形で」として1970年12月の『美術手帖』第336号に邦訳が掲載された[24]。だが、シュステルのこの宣言に反対するシュルレアリスムの詩人ヴァンサン・ブーヌール(フランス語版)、美術評論家・造形作家のジャン=ルイ・ベドゥアン(フランス語版)らは活動を継続した。以後も個々の制作活動とは別に機関誌の刊行などを続け、他のシュルレアリストに受け継がれている[注 4]。一方、他国に広がったシュルレアリスムはシュステルの宣言の影響を受けることなく、独自の活動を展開した。
2024年、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表してから100年となる節目の年を迎える[25]。 1920年代にはフランス国外でもブルトンらの影響のもとに、あるいは独自に前衛文学・芸術運動が起こった。1927年にスペインの詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ、ラファエル・アルベルティ、ビセンテ・アレイクサンドレ、ルイス・セルヌーダ
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