シュラクサイ
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紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争でシチリアでも勢力を拡大しようとするアテナイに対してスパルタと結んで戦った。シュラクサイはアテナイの敵であるスパルタに援軍を送り、アテナイの船を破壊したり、島を包囲して餓死させるなどして、スパルタの勝利に貢献した。

紀元前4世紀初頭、僭主ディオニュシオス1世カルタゴに対して戦争を仕掛け、シチリア島全域を支配することに成功した。彼の死後支配権を継承した子のディオニュシオス2世は親戚(1世の義弟)のディオンによって廃位された。プラトンの弟子でもあり、哲人政治の理想を追い求めていたディオンは暗殺され、数名の僭主の後にディオニュシオス2世が復位した。その後、コリントスよりティモレオンが派遣されてきて、彼はディオニュシオス2世をはじめシチリアから僭主を一掃し、さらにヒケタスと結んで攻め込んできたカルタゴ軍をクリミソス川の戦いで破り、撃退した。しかし、紀元前317年にアガトクレスが僭主となり、僭主制が復活した(シケリア戦争中の四次にわたるシュラクサイ包囲戦は各項目参照)。

紀元前264年から始まった、シチリア島の帰属を争う第一次ポエニ戦争では共和政ローマ側に付いてカルタゴと戦ったことにより、ローマの同盟市としてローマの属州に組み込まれることはなかった。しかし、第二次ポエニ戦争でのシラクサはローマとの同盟を破棄しカルタゴと結んだ。

シラクサ出身の人物で最も有名な一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、第二次ポエニ戦争におけるローマによるシラクサ包囲戦に対抗するための軍事兵器もあった。アルキメデス考案の兵器はローマ軍を大いに苦しめ、三年間に渡りローマの攻撃を撃退し続けたという。シュラクサイは紀元前212年、ローマのプロコンスルマルクス・クラウディウス・マルケッルスによって陥落した[10]。アルキメデスはそれと知らないローマ兵によって殺害され、都市は略奪されたという[11]。都市国家シラクサはローマに併合されシキリア属州に組み込まれた。
ローマ支配から中世にかけて

年月をかけゆっくりと衰退しながらも、シラクサはシチリアにおけるローマ政権の首都の地位にあり、プラエトルの配置がされていた。また、市は帝国の東西の間にある通商の重要港のままだった。市のキリスト教化は、タルススのパウルスと、シラクサ初代司教であった聖マルツィアーノによって広がった。マルツィアーノは、シラクサを西方における改宗の一代中心地としたのである。この迫害の時代に、どっしりとしたカタコンベが掘られた。

ヴァンダル族支配の後、シラクサとシチリア本島は東ローマ帝国ベリサリウスによってローマ人の元に取り戻された(535年12月31日)。663年から668年、シラクサはコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。

878年に起きたアグラブ朝による包囲戦で陥落した際にはシラクサ市街への情け容赦ない略奪が行われ、2世紀にも渡るイスラム支配が始まった。シラクサは島の首都の地位をパレルモに奪われた。大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物は次第にイスラム様式に沿って再建された。どのようであれ、市は、重要な通商関係を保ち、文化と芸術が同時期に華開いた。12世紀のシチリア人詩人で最重要の人物であるイブン・ハムディス(英語版)は、シラクサに暮らしていた。

1028年、東ローマの将軍ゲオルギオス・マニアケス(英語版)がシラクサを再征服し、聖ルチアの聖遺物をコンスタンティノープルへ送った。オルティジア島の最南端にある城は、1239年にホーエンシュタウフェン家フェデリーコ2世の命で建設されたが、マニアケスの名前が冠されている。

1085年、シチリア伯ルッジェーロ1世とシラクサ伯ジョルダーノ(英語版)が夏季の長い包囲戦の末に勝利し、ノルマン人サラセン人最後の要塞の一つシラクサへ入った。市内には新たな地区が建設され、他の教会と同様に大聖堂が復興した。

1194年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシラクサを占領した。1205年から1220年までの短期のジェノヴァ支配の後、シラクサは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が奪回した。彼はマニアーチェ城(英語版)、司教宮殿、ベッロモ宮殿の建設を始めた。フリードリヒの死で社会的不安と封建制の無秩序の時代が始まった。アンジュー家アラゴン王家の争いで、シラクサはアラゴン側に立ち、1298年にアンジュー家を敗退させた。この褒美として、宗主国アラゴンから多大な特権を授けられた。地元の有力貴族の優越ぶりが、アベラ、キアラモンテ、ナヴァ、モンタルトへの城の建設で見せつけられた。
近代と現代

シラクサは、1542年と1693年の二度、破滅的な地震に見舞われ、17世紀の破壊は、ヴァル・ディ・ノート全体と同様に、シラクサの外観を永久に変えた。地震被害にあった都市は、典型的なシチリア・バロック様式に沿って再建され、この様式は南イタリア芸術の典型的な例とされている。

1729年にはペストが大流行した。1837年のコレラ大流行は、ブルボン家支配に対する反乱を引き起こした。処罰としてシラクサからノートへ県都が移されたが、社会不安が全体的に阻止されることなく、シラクサ人は1848年シチリア独立革命(英語版)に立ち上がった。

1865年のイタリア統一運動後、シラクサは県都の地位を取り戻した。1870年、荒れるがままであった市壁と、オルティジア島と本土とをつないでいた橋が再建された。同じ年、鉄道網が建設された。

1943年、連合国側とナチス・ドイツの空爆で激しく市は破壊された。連合国側のシチリア侵攻の際のハスキー作戦は、島西部を攻撃するイギリス軍とともに1943年7月9日から10日の夜にかけ始められた。バーナード・モントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍団は、ほとんど抵抗なしに侵入最初の日にシラクサを占領した。港はイギリス海軍の基地として使われた[12]。市の西部には、およそ1,000人が埋葬された戦没者墓地がある。第二次世界大戦後、シラクサの北部地区は急速な工業化により市域を拡大した。
みどころ
古代の建築物

シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡
イタリア

シラクサの古代ギリシャ時代の劇場跡
英名Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalica
仏名Syracuse et la necropole rocheuse de Pantalica
面積63858.5 ha
(緩衝地域 5519.4 ha)
登録区分文化遺産
登録基準(2), (3), (4), (6)
登録年2005年
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示


アポロ神殿(英語版) - 東ローマ時代にキリスト教教会に、アラブ人支配時代にはモスクとなった。ノルマン時代には再びキリスト教教会になり、スペイン支配下で兵舎に転用される。近代の都市整備で一帯を埋めていた中世の建物が撤去され、再発見される。

アレテュサの泉(英語版) - オルティジア島にある。伝説によれば、ニンフアレトゥサ河神アルペイオスに追われ、この泉に身を変えたとされる。

ギリシア劇場(英語版) - この劇場の階級別座席 (cavea) は、かつて古代ギリシアで建造されたものとしては最大規模である。8つの(階段)通路により9つのセクションに分かれ、67列(段)で1万5千の座席があった。建造物(今も使用されるが)は、ローマ時代に円形闘技場のような見世物興業に合うよう変更された。劇場の近くには古代に石牢として使用された採石場があり、最も有名なのはオレッキオ・ディ・ディオニジオ(英語版)だ。

アンフィテアトルム - ローマ円形闘技場。この種の闘技場としてはシチリア最大で、紀元前1世紀頃、半分は岩をくりぬき、残りは切石を積んでつくられた。


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