シュタージ
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1960年代までは、西ドイツが、他国へ東ドイツとの国交関係を持った場合、外交関係を断絶すると圧力をかけていたため、当局が大きな力を持っていた[10]。しかし、1980年代になると、東西ドイツの緊張関係も緩和され、東ドイツは各国へ大使館を置くことができるようになり、相対的に当局の地位が下がった[10]

第1局(Hauptabteilung I) - 国家人民軍および国境警備隊、軍事偵察局(ドイツ語版)(国防省(ドイツ語版)直轄の軍事情報部門)の監視を担当。

第2局(Hauptabteilung II) - 防諜担当。

第3局(Hauptabteilung III) - 東ベルリンにおける防諜とシギントによる通信傍受を担当。

フェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊 - 直属の準軍事組織。1989年10月時点で、1万1000人が当局に所属していた[11]

人員数と非公式協力者の数について

シュタージの正規の職員の数については、1953年6月時点で4000人、1953年11月時点では9000人、1975年には5万9458人と順次増員されていった[12][13]。ベルリンの壁崩壊前後(1989年)時点では、文献によりばらつきがあるが、9万人から10万人の正規職員を抱えていた[1][14][2][15][11][13]。一方非公式協力者(IM、Inoffizieller Mitarbeiter)と呼ばれた密告者については、ベルリンの壁崩壊後の東ドイツ政府の発表では10万9000人とされるが[16]、文献によっては17万人とも[17][2][15][11]、200万人ともいわれる[16]。社会に対するこのような監視方法はナチドイツ時代のゲシュタポのやりかたに似たものであり[18]、シュタージも完全にゲシュタポの手法を踏襲したものだと見られている。
対国内諜報活動

シュタージは軍隊式の階級を持ち、正規職員は国家人民軍地上軍(陸軍)のものと酷似した制服を着用することもあった。

国内活動向けの準軍事組織として、フェリックス・E・ジェルジンスキー衛兵連隊を有しており、これが公にされていた唯一の組織であった。

シュタージが集めた反体制分子と目された人々の詳細な個人情報のファイルは、東ドイツ崩壊後、本人や家族に限り閲覧が出来る様になったが、それによって家族や親友、クラスメイトや職場の同僚が実はシュタージの職員もしくはIMであり、信頼していた人物にまで言動を監視されていた真実を知って家庭崩壊や極度の人間不信に陥った事例も少なからず発生し、中には精神病を患う者さえ出た。なお、崩壊前に証拠隠滅として個人ファイルの紙をバラバラに切り刻んだために詳細が不明となっている記録も多く、2017年時点でも、ドイツ連邦政府によってファイルの復元作業が行われている。

1973年に作成された要領で、ベルリンの壁を越えて西側亡命を図る者は、子供でも躊躇せず銃撃を加えることと規定され、厳しい東西対立のほか、西側への人口流出という社会問題を背景に、徹底的な抑圧を行った。ベルリンの壁を乗り越えようとし亡命に失敗、発砲などで命を落とした人は、およそ1200人を越えるといわれている。

1976年より、シュタージは「ツェルゼッツンク(英語版)」と呼ばれる、心理学的な「戦意喪失策」を監視対象に対して実行する心理戦法を体系化して採択した。ツェルゼッツンクは「分解」や「弱体化」、「破壊」や「崩壊」などと訳される用語(英語ではデコンポジション)であり、監視対象者を逮捕・投獄する前段階で心理的に攻撃し、弱体化させる目的で開発されたが、実際には投獄中や、釈放後にも継続して実施される事もあった。

具体的には、前述のような手段により収集された個人情報の中から、監視対象者の職業上・家庭内での失敗、性的嗜好アルコール薬物ゲームなどへの依存的傾向、何らかの収集癖、監視対象者の家族や監視対象者が所属する何らかのグループ内の仲間しか知りえないレベルの恥や失態といった人間的弱点を抽出し、匿名の手紙、電話や電報、改竄された写真などを用いて監視対象者の周囲にばら撒いたり、監視対象者の家屋や車両などに「目に見える形の」軽微な破壊工作を仕掛けたり、既婚者、特に女性に対してはロミオ諜報員(英語版)と呼ばれる男性エージェントを用いてハニートラップを仕掛け、離婚に至る紛争を誘発させたりする事で、監視対象者本人と家族を含む周囲の人物との間に不和と相互不信を生じさせ、監視対象者の人間関係を破壊して孤立させ、心理的虐待を加えることで反体制的な意志の弱体化を図った。

東ドイツの対外宣伝に大いに役立てられたオリンピック選手達も例外ではなく、海外遠征中に亡命などを企図した疑いのある選手に対しては、トップ選手であっても容赦なく「弱体化」の処置が加えられた。著名な例としては、女子陸上選手のイネス・ガイペル(ドイツ語版)は、海外遠征中に親密になった現地人男性から亡命を勧められた事が原因で、シュタージの手で「腹痛を発症した後に行われた虫垂炎手術の際に、胃を全摘出される」という行為を受け、この後遺症により現役引退を余儀なくされている。イネスは東ドイツ崩壊後に自らのシュタージ・ファイルを閲覧した事で、初めて事の真相と自らに施された手術の全容を知ったという[19]

ドイツの歴史家であるフーベルトゥス・クナーベ(英語版)に依ると、ツェルゼッツンク採択の後、シュタージは必ずしも全ての政治的反対者を逮捕・投獄する必要が無くなったが、逆にシュタージは逮捕するまでには至らない水準の監視対象者に対してもツェルゼッツンクを用いた心理的攻撃を積極的に仕掛け、人間関係と精神状態を崩壊させていく過程を娯楽のように楽しむようになっていったという。クナーベはこうした東ドイツの支配体制を「(秘密警察による物理的暴力を主体とした従来型の支配体制に比較して)非常に近代的な独裁であった」と総括した[20]WIREDは、かつて東西ドイツの国民を震え上がらせたツェルゼッツンクの手法は決して過去のものではなく、情報化時代の進展で国際的監視網が発達した現代こそ、改めて注目されるべき心理戦法であろうと報じている[21]

ツェルゼッツンクに類似した国家による個人攻撃手法はアメリカ合衆国でもコインテルプロとして採用されていた時期があり[22]ソビエト連邦以来積極的措置(英語版)に代表される対外工作活動が重視されてきたロシア連邦でも、ウラジーミル・プーチンによる権力掌握後は主にロシア国内やNIS諸国に駐在する外交官や、旧ソ連構成国内の反体制的なジャーナリストを対象に同様の手法が積極的に用いられるようになったとされている[23][24]。また、陰謀論の世界では、ツェルゼッツンクの手法はしばしばサイバー・ストーカー(集団ストーカー、ギャング・ストーカー)の常套テクニックとして、広く応用されているとも主張される[25]


対西ドイツ工作の成果ベルリンの旧シュタージ中央庁舎。(現在のシュタージ博物館(ドイツ語版、英語版))

1954年7月20日、西ドイツの連邦憲法擁護庁 (BfV) 長官代行オットー・ヨーン博士が東ドイツに亡命(のち西ドイツに帰国)。

1985年8月15日、BfV防諜局長ハンス・ティートゲ(英語版)が失踪した。8月19日、ティートゲは東ベルリンで記者会見を開き、西ドイツと決別し、東ドイツで新しい生活を送ることを明らかにした(実際は、自身のアルコール中毒や妻の死に起因する精神不安定が原因とされている)。後にベルリン・フンボルト大学において、BfVの活動を記述した「ドイツ連邦共和国における憲法擁護庁の防諜機能」という論文で博士号を取得。


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