シュタージの正規の職員の数については、1953年6月時点で4000人、1953年11月時点では9000人、1975年には5万9458人と順次増員されていった[12][13]。ベルリンの壁崩壊前後(1989年)時点では、文献によりばらつきがあるが、9万人から10万人の正規職員を抱えていた[1][14][2][15][11][13]。一方非公式協力者(IM、Inoffizieller Mitarbeiter)と呼ばれた密告者については、ベルリンの壁崩壊後の東ドイツ政府の発表では10万9000人とされるが[16]、文献によっては17万人とも[17][2][15][11]、200万人ともいわれる[16]。社会に対するこのような監視方法はナチドイツ時代のゲシュタポのやりかたに似たものであり[18]、シュタージも完全にゲシュタポの手法を踏襲したものだと見られている。 シュタージは軍隊式の階級を持ち、正規職員は国家人民軍地上軍(陸軍)のものと酷似した制服を着用することもあった。
対国内諜報活動
国内活動向けの準軍事組織として、フェリックス・E・ジェルジンスキー衛兵連隊を有しており、これが公にされていた唯一の組織であった。
シュタージが集めた反体制分子と目された人々の詳細な個人情報のファイルは、東ドイツ崩壊後、本人や家族に限り閲覧が出来る様になったが、それによって家族や親友、クラスメイトや職場の同僚が実はシュタージの職員もしくはIMであり、信頼していた人物にまで言動を監視されていた真実を知って家庭崩壊や極度の人間不信に陥った事例も少なからず発生し、中には精神病を患う者さえ出た。なお、崩壊前に証拠隠滅として個人ファイルの紙をバラバラに切り刻んだために詳細が不明となっている記録も多く、2017年時点でも、ドイツ連邦政府によってファイルの復元作業が行われている。
1973年に作成された要領で、ベルリンの壁を越えて西側へ亡命を図る者は、子供でも躊躇せず銃撃を加えることと規定され、厳しい東西対立のほか、西側への人口流出という社会問題を背景に、徹底的な抑圧を行った。ベルリンの壁を乗り越えようとし亡命に失敗、発砲などで命を落とした人は、およそ1200人を越えるといわれている。
1976年より、シュタージは「ツェルゼッツンク