シャーラタンズ
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当時のマッドチェスタームーブメントの火付け役であったザ・ストーン・ローゼズイアン・ブラウンを思わせるバージェスのボーカルスタイルとルックス、そして既に商業的成功を収めていたもう1つのマンチェスターバンド、インスパイラル・カーペッツを連想させるハモンドオルガンのサウンドから、バンドにオリジナリティーが無いなどと一部のプレスから否定的な批評を受ける。しかし、ルックスと楽曲の良さ、そして加熱していたマッドチェスタームーブメントが後押しし、インディーズのファン層を越え、一般レベルの認知度・ファン層を獲得。当時のマッドチェスタームーブメントでは商業的に一番成功したバンドと言われるようになる。

シングル1枚をリリースしただけで、ロンドンにある中堅バンド向けライブ会場の「Town & Country Club(現London Forum)」をソールドアウトにし業界関係者を驚かせるなど、デビュー当時の注目度はかなり高かった。ファーストシングルの後、インディーズレーベルの「Situation Two」(ベガーズ・バンケット傘下)と契約し、1990年5月14日にセカンドシングル「ジ・オンリー・ワン・アイ・ノウ」をリリース。ダンサブルなビートにパーカッシブなハモンドオルガンが全面に打ち出された同曲は、全英チャートで最高位9位にランクインし、マッドチェスタームーブメントを代表する曲となる。同年9月10日にサードシングル「ゼン」(全英最高位12位)をリリース後、10月8日にファーストアルバム『サム・フレンドリー』を発表。プロデューサージョイ・ディヴィジョンニュー・オーダーレコーディング・エンジニアとして知られるクリス・ナグル。同アルバムは、インディーズチャート、全英チャートとも第1位を獲得し、インディーズバンドとしては破格の成功を収めた。

ファーストアルバムのリリースに合わせ全英ツアーを行った後、翌年1991年2月から3月にかけて、15カ所16公演の全米ツアーを行った。米国では当時、カレッジチャート「CMJ」で『サム・フレンドリー』が13週間連続で第1位になるなど、バンドへの注目度が高かったため、1公演を除きすべてがソールドアウトとなる盛況ぶりだった(ただし、全米ビルボードチャートでのランクインは73位止まり)。このツアーのライブは、後にファンクラブ限定でリリースされた『Isolation 21.2.91』(シカゴ公演を収録)で聴ける。また、全米ツアーの最中に英国で4thシングル「オーヴァー・ライジング」(全英15位)をリリース。ファーストアルバムとは違い、ギターを全面に打ち出した曲で、それまでの作品よりもロック色が強くなった作品と言える。B面に「ハプン・トゥ・ダイ」という曲があり、こちらの方がポップな曲調でA面向けの曲だったが、当時湾岸戦争が勃発し、曲のタイトル、サビの部分(Happen to Die = 偶然に死ぬ)がラジオテレビで放送するのに不向きであると判断されたため、急遽「オーヴァー・ライジング」がA面になったという逸話がある。そして、同年4月には初の来日公演を行った。クラブチッタ川崎で2日間行われた東京公演では、会場内を仕切る鉄柵が破損するほどの超満員を記録した。

1991年の夏頃、ギター担当のオリジナルメンバー、ジョン・ベイカーが脱退。当初の脱退理由は、「バンドに貢献できるものがほとんどなくなった」というベイカーによる自主的な脱退と伝えられていたが、後にベイカーの技量に疑問を持ったロブ・コリンズ、ブラントなどの判断による解雇であったことが判明している。

ベイカーの脱退後、現在のギタリストであるマーク・コリンズがオーディションにより加入。マークは加入前にThe WaltonesやCandlestick Parkといったバンドなどで既にレコードデビューしていた。また、マークはインスパイラル・カーペッツのツアー車の運転手をしていたこともあった。マークを迎え入れたバンドはセカンドアルバムのレコーディングを進め、1991年11月4日に5thシングル「ミー・イン・タイム」をリリースする。当時はマッドチェスタームーブメントが下火になり始めていたこともあってか、全英チャートでは最高位28位と振るわなかった。曲調・サウンドは、トレードマークのオルガンを使わず、曲全体がざらついたギターサウンドで覆われていて、当時プレスでよく話題にされていたシューゲイザー系バンドの影響が見られる。また、同シングルのリリース前に、ブラントが鬱病に陥るという事件が起こる。鬱病になった経緯の詳細ははっきりとは明かされていないが、私生活での問題に加え、音楽業界に対する不信感やベイカーを脱退させたことに罪悪感を抱いていたことなどが原因だと言われている。ちなみに、この時期に鬱病になったことと関係があるのかどうかは定かではないが、ブラントは「ミー・イン・タイム」をひどく嫌っていた。
セカンドアルバム?メンバーの投獄(1992年 - 1993年)

1992年2月24日、セカンドアルバムからの先行シングル「ウィアドー」(全英19位)をリリース。サウンド全面に打ち出された叩きつけるようなハモンドオルガンのリフ、打ち込みのリズムトラック、バージェスの無機質なボーカルが特徴的なこの曲は、現在でもライブで度々演奏される。3月23日にはセカンドアルバム『ビトウィーン・10th・アンド・11th』をリリースするが、この頃には世間ではマッドチェスタームーブメントが完全に下火となっていて、全英チャート最高位21位という結果に終わる。セカンドアルバムはU2のアルバムなどを手がけたフラッドによりプロデュースされた。7月6日にセカンドアルバムからのシングルカット曲「トレメロ・ソング」(全英44位)をリリースし、8月28日に英レディング・フェスティバルの初日に準トリで出演した後、9月に2度目の来日ツアーを行った。

この後、バンド活動の一時中断が余儀なくされる事件が起こる。1992年12月3日、キーボードのロブ・コリンズが酒屋で強盗を試みた友人の逃走に協力したとして、その友人とともに強盗未遂で逮捕された。ロブは強盗の行為そのものには関与していなかったが、結果的に逃走車となった自分の車を運転していたことが罪に問われ、懲役8カ月の実刑判決を言い渡された。1993年春に英バンド、ライドとダブルヘッダーで行ったデイトリッパーツアー、そしてサードアルバムの制作は、この事件と平行して行われた。その際、ロブが担当するキーボード、バックボーカルのレコーディングは、刑務所入りするまでに録り終えなければならないなどの状況を強いられた。入所後、刑務所では朝礼の際にオルガンを弾くなど、行いが良かったため4カ月で仮出所した。
サードアルバム?2度目の全英チャート第1位獲得(1994年 - 1995年)

サードアルバムのレコーディングを終えたバンドは、1994年1月24日に8thシングル「キャント・ゲット・アウト・オブ・ベッド」をリリース(全英24位)。3月7日には、9thシングル「イージー・ライフ(原題:I Never Want an Easy Life If Me and He Were Ever to Get There)」(全英32位)を1週間の期間限定でリリースし、3月21日にサードアルバム『アップ・トゥ・アワ・ヒップス』を発表。全英チャートで8位にランクインし、アルバムチャートで再びトップテンに返り咲いた。アルバムのプロデューサーは、ゴングシステム7スティーヴ・ヒレッジ。ベース音が幅を利かせた、全体的にヘヴィな音に仕上がっている。また前述の通り、ロブのレコーディングに制限があったため、数曲を除きオルガンその他のキーボード音は控えめである。このアルバムについて特筆すべきことは、雰囲気・サウンドを重視するそれまでの曲作りから「キャント・ゲット・アウト・オブ・ベッド」のような「歌」そのものを意識した曲作りに傾倒していった点だ。これは、その後のバンドの音楽的方向性を決める大きなターニングポイントとなる。そして同年6月20日に、B面の収録曲が異なる2バージョンの「ジーザス・ヘアドゥ」(全英46位)をリリースし、12月28日には収録曲全曲が新曲の「クラッシン・イン」(全英31位)を発表した。

1995年前半は4thアルバムのレコーディングに専念。当初はサードアルバムと同じスティーヴ・ヒレッジのプロデュースでレコーディングが進められていた。しかしヒレッジは、シャーラタンズのアルバムだけでなく、他のアーティストのレコーディングプロジェクトにも関与していて、シャーラタンズのレコーディングへの参加を一時中断しなければならない状況があった。メンバーはそのことを不満に思い、また4thアルバムの最終ミックスバージョン(8バージョンあった)をどれも気に入らなかったため、アルバム完成前にヒレッジを解雇した。その後、メンバー自身とエンジニアのデイヴ・チャールズの共同プロデュースで4thアルバムのレコーディングを続ける。同年5月8日、両A面シングル「ジャスト・ルッキン / ブレット・カムズ」(全英32位)をリリースし、グラストンベリー・フェスティバル、フェニックス・フェスティバルなどへのライブ出演を経て、8月7日に13thシングル「ジャスト・ホウェン・ユーアー・シンキン・シングス・オーヴァー」(全英12位)をリリース。追って8月28日にリリースされた4thアルバム『ザ・シャーラタンズ』は全英チャートで堂々の第1位を獲得した。メンバー本人たちは、このアルバムにかなりの自信を持っていたようで、このことはアルバム名がセルフタイトルであることからもよく分かる。その後、秋の全米、全英ツアーを経て、11月下旬から12月上旬に3度目の来日公演を行った。
メンバーの死?メジャーレーベルへ(1996年 - 1998年)

1996年夏、バンド史上最も不幸な事件が訪れる。5thアルバムのミックスダウン中だった7月22日、ロブが自分のBMW車を運転中に事故を起こした。すぐに救急車病院へ運ばれたものの、運ばれる前に既に心肺停止状態であったという。事故の原因は飲酒運転であり、しかもシートベルトを着用していなかったことが致命的となった。バンドは、既に出演が決まっていたオアシスネブワースでの野外ライブ(8月11日)、V96フェスティバル(8月16日)への出演をキャンセルすることを考えたが、プライマル・スクリームのキーボード、マーティン・ダフィーの協力を得て出演を決行。8月26日発売の14thシングル「ワン・トゥ・アナザー」(全英3位)は、ロブが100%参加した最後のシングル作品となった。


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