シモーヌ・ヴェイユ_(哲学者)
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^ 「シモーヌ・ヴェーユの両親は完全な不可知論の中で彼女を育てた」『シモーヌ・ヴェーユ伝』ジャック・カボー(1974).9頁。※以下同著は “JC.”と略す
^ 但しヴェイユの姪シルヴィ・ヴェイユは父アンドレが[割礼を受けていた]と記している(シルヴィ・ヴェイユ『アンドレとシモーヌ ?ヴェイユ家の物語?』264頁。
 また同書でシルヴィは(カボーが両親の「不可知論」と名指した内容に関して)祖父を「進歩思想の無信仰者医師ベルナール」祖母を「自由思想の」「反抗的なセルマ」と評している(同書.65-69頁)
^ 冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』岩波書店(2002).10頁
^ 次の年,同行禁止令は解除された:SP1.18頁
^ SP1.17-30頁。JC.6-7頁
^ ジャック・カボーのヴェーユ伝には“六歳”と書いてある(JC,6頁)が,1915年の元旦だと2月3日生まれのシモーヌは,日本で一般的な"満年齢"では5歳となり,冨原眞弓も「五歳にして新聞を読み」(『シモーヌ・ヴェイユ』岩波書店.10頁)としている
^ 『シモーヌ・ヴェイユ』冨原眞弓:10頁.(*文章に対する並外れた記憶力はこの時期発達したのかもしれない-意味記憶の発達は例えば ⇒2015-5-6閲覧、 ⇒2015-5-6閲覧など)
^ 西部戦線 (第一次世界大戦),世界史講義録-第114回.総力戦となった第一次大戦
^ 第一次大戦時、フランスには身寄りのない兵士に対し子供達が学級ぐるみで家族がわりになる「クラスの名付け子兵士 filleul de la classe」という制度があった(天野知恵子 2010)。所属学級がなかったヴェイユ兄妹はおそらく個人単位でそれぞれの名付け子兵士と交流していたのだろう。SP1,22頁
^ 彼を泊めることができたとき,少女はひどく喜んだ.SP1.26頁
^ 同前.同頁.
^ SP1.30頁
^ 「そのときまでわたしは戦時下の子供たちとおなじく,まったく熱狂的な愛国者でした」しかし「敗れた敵を辱めようとする意思が,この時期(およびそれ以後にも何年にもわたって)いたるところでぞっとするほど充満し,それによってわたしの素朴な愛国主義はいっぺんに癒えてしまいました。わたしの国が蒙らせている辱しめはわたしの国が受けるかも知れない辱しめにくらべて,ずっとわたしには痛ましいものなのです」(ジョルジュ・ベルナノスへの手紙)_JC.8頁
^ 「彼女は早くから社会的不正に心を痛めるようになり、自分の本能によって、不幸な人々の側に身を置くようになっていたのです。この選択はけっしてかわることなく彼女の生涯に一貫性を与えています」(『シモーヌ・ヴェイユ著作集 I』春秋社(1968)<『労働の条件』によせたテヴノン夫人(Albertine Thevenon)の序文>508頁.(※.以下『シモーヌ・ヴェイユ著作集』は“『著作集』”と略し巻数はギリシア数字で付す)
^ SP1.31頁
^ 「一日を費やしたが評価はゼロであった」SP1.32頁
^ 「シモーヌは終生、この返答を面白がった。彼女はよく母親に向かって、自分の額をたたきながら「足りないのは、ここでがんす」と言ったものである(SP1.32頁)
^ 不器用さはシモーヌの人生の至るところでひとつのキーとなっている?「シモーヌ・ヴェイユは幼児から、一種の血行障害に苦しめられ、たとえば学校での製図の授業などのときに、急に手がしびれて動かなくなる経験がたびたびあった(略)(工場では)生来の不器用というハンディキャップを背負った彼女がどんなに苦しんだかは想像に余りがある」(『労働と人生についての省察』訳者・田辺保によるあとがき.267頁)スペイン戦争(前線での彼女のポジションや火傷)など。もうひとつのキーである頭痛については、吉本隆明『甦るヴェイユ』IV章“痛みの神学・心理・病理”135-157頁が詳しい
^ アンドレは14歳の時、古典語のバカロレアに合格,15歳で哲学と基礎数学のバカロレアに合格し,16歳で高等師範学校理系試験を<きわめて優秀>という評価で合格していた(SP1.38頁)
^ 「十四歳のとき…生来の自分の能力の凡庸さゆえにわたしは死ぬことを真剣に考えたことがあります。兄のなみはずれた素質を思いますとき…」「わたしが嘆き悲しんだ他のは外面的な成功が得られないという事ではなく、真に偉大な人びとだけが入ってゆくことができる真理」に「近づく希望がまったく持てないということでした」JC.10頁
^ 「心の闇の何か月かを過ごしたあとでわたしは突然に、どんな人でも、たとえ生まれつきの能力はほとんどなくても、ただ真理を望んでたえず真理に達するためにちょっと注意さえすれば」「真理の国に入ることができるのだという確信を持ち、その確信はいつまでも続くことになりました」『著作集 IV』<「神をまちのぞむ」渡辺秀訳>.30頁
^ SP1.40頁
^ ジョセフ・ベディエ(コトバンク).参照(松原秀一「フランス中世文学の写本と校訂法 : ベディエの立場を廻って」『藝文研究』第16巻、慶應義塾大学藝文学会、1963年10月、107-121頁、ISSN 0435-1630、CRID 1050845763879788416。 )
^ バカロレアの口頭試験(試験は筆記と口述の2つ)で『ローランの歌』について質問で、大家ベディアの講義を受けていたシモーヌが答えていくと「髭をはやした老試験管の顔が」「輝きをましていくのが傍目にも明らかで」「彼女は「優」の評価で合格した」SP1.40-41頁。『著作集 V』359頁の年譜では1924年にまだフェヌロン校にいたことになっているがペトルマンの記述をつきあわせるとつじつまが合わないので1923年とした
^ JC.11頁

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