シモーヌ・ド・ボーヴォワール
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必然的な愛 ― 終生の伴侶サルトルパリ6区ラスパイユ大通り136番地にあるバルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル (1920年代)

1929年(21歳)、哲学のアグレガシオン(一級教員資格)試験に合格。前年に落第したサルトルが主席、ボーヴォワールが次席であった。21歳での合格は史上最年少であり、また女性全体としてもアグレガシオンが女性を受け入れ始めてから9人目の合格者だった[2]。志願者76人のうち、合格した女性は4人、男性は9人で、ニザンは5位、マウーは落第した。ダンフェール=ロシュロー通り91番地に越す。サルトルから婚姻も子どもを持つこともなく、嘘をつくことも隠し立てをすることもなく、互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶となることを提案される。これ以前に、サルトルは、高等師範学校の同級生の従妹でリヨンに住む女性との結婚を望み、彼女の両親に正式に申し込んだが、アグレガシオンに落第したことを理由に反対されていた[3]。制度としての婚姻や母性を拒否し、自立と自由を求めていたボーヴォワールは最終的にこの申し出を受け入れた。二人のこの反体制順応的な関係は、しばしばサルトルの「私たちのあいだの愛は必然的なもの。でも偶然の愛を知ってもいい」という言葉により表され[4]、新たな男女関係のあり方として若い世代を魅了した。なお、二人の関係はサルトルがボーヴォワールを「身分違いの妻 (epouse morganatique)」と呼んだことから[5]「貴賤結婚 (mariage morganatique)」と称される。語義上は「貴賤結婚」だが、これはかつて王家出身の男性が自分より身分の低い女性と結婚する場合、王家の特権、夫の遺産相続、子の嫡出性等に関する法令が適用されない旨の契約を交わす必要があったからであり[6]、この意味で、「契約結婚」という訳語が当てられることがあるが、あくまでも従来の法制度に従わない、双方の合意のみに基づく結婚という意味である。当初は2年間の「更新可能な」婚姻関係であったが、サルトルが亡くなる1980年まで、二人はそれぞれに「偶然の愛」の経験しながらも、「必然的な愛」を貫くことになった。

7区のヴィクトル・デュリュイ高等学校でラテン語の代理教員を務める。

1930年、サルトル、兵役に就く。

1931年、ボーヴォワールはマルセイユのモングラン高等学校の教員になり、サルトルはル・アーヴルで教職に就く。
偶然の愛 ― オルガ、ボスト、ビアンカ、ナタリー…

1932年ルーアンのジャンヌダルク高等学校の教員になり、同僚のコレット・オドゥリ(フランス語版)(後にメディシス賞を受賞した作家・戯曲家)、教え子のオルガ・コザキエヴィッツ(1915年、キーウ生まれ)に出会う。

1933年国民社会主義ドイツ労働者党指導者のヒトラーが首相に任命される。

1934年2月にベルリンに滞在し、7月から8月にかけてサルトルと共にドイツオーストリアチェコスロバキアでヴァカンスを過ごす。マリア・ヴェローヌルイーズ・ワイスらが女性参政権運動を起こす。

1935年、ボーヴォワールが自宅に住まわせて面倒を見ていたオルガにサルトルが好意を寄せる。1937年まで続いたこの三角関係は、ボーヴォワールが自由な関係や嫉妬という感情について考察を深め、処女作『招かれた女』(1943) を書く契機となった。

1936年、ゲテ通りのロワイヤル・ブルターニュ旅館に滞在。サルトルはラン(フランス北部)で教職に就く。反ファシズムを掲げるフランス人民戦線が圧勝し、社会主義政権が誕生。作家ジャック=ローラン・ボスト(フランス語版)に出会う。10月、パリのモリエール高等学校に着任。『招かれた女』の執筆開始(当初は『正当防衛』と題する)。

1937年、モリエール高等学校でポーランド系フランス人のビアンカ・ビアナンフェルド(後の作家・哲学者ビアンカ・ランブラン(フランス語版)で『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』の著者)に出会う。サルトルはオルガの妹ワンダ・コザキエヴィッツに出会い、ワンダはサルトルと結婚するつもりであったが、後にサルトルから別れの手紙を受け取った。

1938年、ジャック=ローラン・ボストとの関係が深まる。サルトルが長編小説『嘔吐』を発表。ビアンカ・ビアナンフェルドと手紙のやり取りが始まり、6月には一緒にモルヴァンを旅行するなど、親交を深める。10月、ソ連からの亡命者で教え子のナタリー・ソロキーヌと出会う。
第二次世界大戦

1939年、サルトルとビアンカ・ビアナンフェルドとの関係が深まる。8月23日、独ソ不可侵条約締結。9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。妹エレーヌが結核の療養のためにポーランドに滞在していたリオネル・ド・ルーレに会いに行き、終戦までポーランドに留まることになる。1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻まで奇妙な戦争(まやかし戦争)。サルトルは召集を受け、ヴィサンブール(アルザス北部バ=ラン県)の気象観測班に配属。ボストも召集され、後にクロワ・ド・ゲール勲章を受ける。ロゼール県のリウクロに「危険な外国人」(スペイン人共和主義者、反ファシスト、ユダヤ人等)の「結集センター」が開設されたのを皮切りに、難民や「危険分子」などを収容する「宿泊センター」、「結集センター」、「強制収容所」と呼ばれる各種の収容所が全国に設置される[7]。10月、カミーユ=セ高等学校の文学教員に任命され、11月にサルトルに会いに行く。

1940年2月に休暇でパリに戻ったサルトルは、1か月後にビアンカに別れの手紙を書く。さらに、4月に2度目の休暇で戻り、『想像力の問題』を発表。5月、ドイツ軍がフランスに侵攻。5月28日、ベルギー軍が降伏。アウシュヴィッツ収容所の建設が始まり、1942年にユダヤ人強制収容所として完成。6月10日、ムッソリーニのイタリアがイギリスとフランスに宣戦布告。6月11日、ボーヴォワールはパリを離れ、ラヴァル(フランス西部)に滞在。6月18日にロンドンに逃れたシャルル・ド・ゴール将軍が同日夕方、BBC放送を通じて抗戦継続を呼びかけた(この後間もなく自由フランス軍を結成)。6月21日、サルトルがパドゥー(ヴォージュ県)で捕虜になり、バカラムルト=エ=モゼル県)の捕虜通過収容所第1号、次いでスタラグ XII Dに収容される。6月22日、コンピエーニュの森フィリップ・ペタン元帥とヒトラーにより独仏休戦協定締結。フランスはドイツ軍の占領下に置かれた北部とペタン元帥がヴィシー政府を置く南部(自由地域)に分断された。6月24日、仏伊休戦協定締結。6月28日、ボーヴォワールは占領下のパリに戻る。7月1日、フランス政府は臨時首都のボルドーからヴィシーに移転。7月10日、ペタン元帥が国民議会において独裁権を与えられ、第三共和政は終焉を迎えた。7月12日、ピエール・ラヴァルが副首相に就任。10月3日、ユダヤ人規定に関する法律が施行され、ユダヤ人の財産没収、特定の職業からの排除等の一連の差別的な措置が講じられた。ボーヴォワールはヴィクトル・デュリュイ高等学校とカミーユ=セ高等学校で授業を再開。10月18日にビアンカと決別。10月24日、ペタン元帥がヒトラーとモントワール(ロワール=エ=シェール県)で会談。ヒトラーが要求する対英宣戦には応じなかったが、会談後の演説でさらなる対独協力を呼びかけた。11月11日、1918年11月11日に締結された(第一次世界大戦における)ドイツと連合国の休戦協定を記念してシャンゼリゼ大通りから凱旋門にかけて高校生、大学生、教員らが大規模なデモを行い、ドイツ軍に逮捕された(1940年11月11日のデモ(フランス語版))。ボーヴォワールも教員であったがデモには参加せず、ヴィシー政府がルーシ大学区総長を懲戒免職にしたが、これについても一切触れていない。当時、ボーヴォワールにとって最も重要な問題は哲学(形而上学)であったため、アンガージュマンの知識人として政治・社会問題に積極的に関与したのは戦後のことである[8]


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