2008年、女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞(略称:シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞)が設立され、アヤーン・ヒルシ・アリ、マララ・ユスフザイ、ミシェル・ペローらが受賞している。 ボーヴォワールにあっては、その生き方(サルトルおよび他の女性・男性との関係)、哲学(人間存在の探究)、思想的立場(実存主義、フェミニズム)、政治的立場(社会主義)、政治・社会活動(アンガージュマン)、執筆活動が分かちがたく結びついている。以下では、これらについて、主にボーヴォワールの自伝小説『娘時代』、『女ざかり』、『レ・マンダラン』、『別れの儀式』およびマリー・ジョ・ボネ[1]らの伝記に基づいて記述する。 1908年1月9日、パリ6区モンパルナス大通り103番地で、ジョルジュ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールとフランソワーズ・ブラスールの間にシモーヌ・リュシ・エルネスティーヌ・マリ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールとして生まれた。父ジョルジュはパリ控訴院弁護士、母フランソワーズはヴェルダン(ロレーヌ地方)の裕福な銀行家ギュスターヴ・ブラスールの娘であったが、翌1909年、ギュスターヴ・ブラスールが破産し、13か月間投獄された後に釈放され、妻と共にパリに引っ越した[1]。 1910年6月6日、妹アンリエット・エレーヌ・ド・ボーヴォワール誕生。ボーヴォワール一家はリムーザン(フランス中南部)にある地所でヴァカンスを過ごすことが多かったため、シモーヌはリムーザンの自然を生涯、愛し続けた。 1913年(5歳)、パリ6区ジャコブ通りのカトリック系の私塾アドリーヌ・デジール学院に入学した。1880年代のジュール・フェリーの教育改革により公教育の非宗教性・無償性が保障されたため、学費を払ってカトリック系の私立学校に子どもを通わせたのは、ほとんどがブルジョワ階級の家庭であった。 1914年8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告(第一次世界大戦)。 1917年、もともと貴族趣味で特に演劇に熱を入れていた父ジョルジュは弁護士を辞め、新事業に手を出していたが失敗し、経済状態は悪化する一方だった。 1918年(10歳)、終戦。アドリーヌ・デジール学院で少女ザザ(本名エリザベット・ラコワン)に出会い、互いに惹かれ、親交を深める。 1919年(11歳)、父ジョルジュの経済状態がさらに悪化したため、レンヌ通り71番地の狭いアパートに引っ越した。シモーヌは父に「お前には持参金がないのだから、結婚はしないで、仕事に就かなければならない。お前には男の頭脳があるのだから」と繰り返し言われ、見捨てられたと感じるようになった(『娘時代』)。 1922年(14歳)、シモーヌは週に3回聖体拝領を受け、月に3回告解をするほど敬虔なカトリック教徒だったが、告解の際の神父の世俗的な発言に憤りを感じ、信仰を失うきっかけとなった(『娘時代』)。 1925年(17歳)、バカロレア取得。ヌイイ=シュル=セーヌのサント=マリー学院、次いでパリ・カトリック学院に入学。母方の祖父ギュスターヴ・ブラスール死去。 1928年(20歳)、妹エレーヌ・ド・ボーヴォワールが後の夫リオネル・ド・ルーレと出会う。シモーヌはソルボンヌ大学に入学。サルトル、後の作家・哲学者ポール・ニザン、後に哲学教師・UNESCO事務局長として知られることになるルネ・マウー
経歴・時代背景
生い立ち
必然的な愛 ― 終生の伴侶サルトルパリ6区ラスパイユ大通り136番地にあるバルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル (1920年代)
1929年(21歳)、哲学のアグレガシオン(一級教員資格)試験に合格。