シモン・ボリバール
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そのような情勢で軽々しく市を放棄すると、味方の市民が殺される恐れがあった。1814年に共和派の軍は防衛戦で消耗したあげく、分かれて脱出した。ボリバルが市民を引きつれて東に脱出すると、スペイン軍は再びカラカスを占領した。

さらにその頃ヌエバ・グラナダでは、トゥンハに首都を置き連邦制を主張するヌエバ・グラナダ連合州とボゴタに拠点を置き中央集権体制を目指すクンディナマルカ共和国が対立し、独立勢力同士で内戦状態となっていた。ボリバルはカルタヘナへと戻ると、ヌエバ・グラナダ連合州の軍を率いて1814年にボゴタを攻略し[2]、両勢力を統合した。ヌエバ・グラナダ連合州は首都をボゴタに移し、さらにサンタ・マルタのスペイン軍を包囲するが、根拠地だったカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れたため、1815年にイギリス領ジャマイカへと亡命した。亡命後、スペイン軍は兵力を増強して独立軍の拠点を次々と陥落させ、1815年にはカルタヘナも陥落した。
ジャマイカ書簡

ジャマイカに逃れたボリバルは、南アメリカ諸国[3] をイギリスの立憲君主制のような政治システムで自由を勝ち取る構想を元に、ジャマイカ書簡と呼ばれる著作を執筆した。この書簡を使ってイギリスの援助を求めたが、イギリスはこれを黙殺した。

1815年にボリバルはイスパニョーラ島に渡り、南西部のハイチ共和国を支配していたアレクサンドル・ペションに軍事的援助を求めた。解放戦争終了後、黒人奴隷を解放することを条件にペションはこれを認め、物心共に援助を与えた。
ボヤカの戦いボヤカの戦い

1816年にハイチの援助を得てボリバルはベネズエラに上陸し再びスペインとの戦闘を開始した。ここで奴隷制を廃止し、その解放した奴隷たちを自軍の兵士に組み込み一進一退の戦いを続けたが、ジャネーロ(英語版)(Llanero)を説得し、アンゴストゥーラを攻略したところで劣勢になり、再びハイチに亡命した。1817年夏に再びベネズエラに上陸し、アンゴストゥーラ(現在のシウダ・ボリバル)を攻略すると、今度はアンゴストゥーラをベネスエラ第三共和国(スペイン語版)(1817年 - 1819年)の臨時首都と宣言した。さらにジャネーロの頭目(カウディーリョ)ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の協力を取り付けることに成功し、イギリスは独立勢力を公然と援助することはなかったが、この頃イギリス・スペイン関係は冷却化していたためイギリス人やスコットランド人やアイルランド人の義勇兵が軍に加わってきた。

ベネズエラでの作戦中、1816年にボゴタが陥落し、ヌエバ・グラナダの独立勢力は完全に崩壊した。1819年、ボリバルは守りの堅いカラカスをやり過ごしてヌエバ・グラナダにとってかえす作戦を立案した。部隊を二手に分け、一隊を平野部(ジャノ)に進撃させ、ボリバル率いる本隊はアンデス山脈を越えてヌエバ・グラナダへ進撃するというものであった。ボリバル率いる本隊は、風雨と寒気にさらされて多数の死者を出したが、スペイン軍の裏を見事に衝いて、同年8月7日、ボヤカの戦いで勝利し[4]、8月10日ボゴタに再入城した。
大コロンビア

1819年12月、ボリバルはアンゴストゥーラ議会(スペイン語版、英語版)でヌエバ・グラナダ共和国の大統領と軍指揮官になった。ボリバルは議会にヌエバ・グラナダとベネズエラを合併した新しい国家の創設を要請した。直ちに現在のベネズエラ・コロンビア・パナマエクアドルを合わせた地域がコロンビア共和国(後世呼ばれる大コロンビア)として宣言された。しかし、ベネズエラとキトグアヤキルは依然としてスペインの支配下であった。

1820年にボリバル軍とスペインの間で6ヵ月の休戦条約が結ばれるが、休戦期間終了後間もなく、ボリバルとスペイン軍の間で戦闘が起こる。 ベネズエラに侵攻したボリバルは1821年6月のカラボボの戦い(英語版)で勝利し、故郷カラカスを奪還する。ボリバルは、1821年5月に開催された大コロンビアの憲法起草のためのククタ議会(スペイン語版、英語版)に招集され、初代コロンビア共和国の大統領として指名を受けた。そして国内が一応固まる様子をみせると、内政はそれまで副官を務めていたヌエバ・グラナダ人の副大統領フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル以下に任せて、ボリバルは大コロンビア領に理論的には含まれるもののまだスペインの統治下にあるキト、そして王党派の牙城ペルー方面の解放に向かった。
ペルー解放と独立戦争の終結
キト攻略

1822年、ボリバルはエクアドル方面の攻略を本格化させる。ボリバルの率いる部隊が山間部からエクアドルに侵入し、ボリバルの部下であったベネズエラ人アントニオ・ホセ・デ・スクレが太平洋側からエクアドルに進んだ。スクレの部隊は 1822年5月24日にピチンチャの戦い(英語版)で勝利を収め、翌日にはキトに入城を果たした。ボリバルもキトに合流し、ここにエクアドルの解放を果たした。また、ここで「永遠の愛人」となるマヌエラ・サエンス(英語版)と出会うことになった。
グアヤキル会談グアヤキルに並び立つ、二人の解放者とラテン・アメリカの解放と統一の記念碑

このころ、アルゼンチンホセ・デ・サン・マルティン将軍は、チリの独立指導者ベルナルド・オイヒンスや、スコットランドの元英王立海軍軍人トマス・コクランらの力を借りて、アルゼンチンのメンドーサからアンデス山脈越え(英語版)をもってチリを解放し、そこから海路ペルーまで進み、初代ペルー護国官となって南から解放戦争を進めていた。しかし、このペルー共和国の支配権は海岸部に限定され、アルト・ペルー(現ボリビア)に拠点を置くスペイン軍とペルー副王のラセルナは抵抗を続けてサン・マルティンを翻弄し、ペルー第一共和国の崩壊が迫っていた。

このため、サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放されたグアヤキルで1822年7月26日にグアヤキル会談(スペイン語版、英語版)を行った。会談の内容は資料が残っておらず詳細は不明であるが、グアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったといわれている。ボリバルが共和制を望んだのとは対照的に、サン・マルティンはヨーロッパから王を導入して立憲君主制を導入することを望んでいたが、ナポレオンの戴冠によりフランス革命が大失敗したと考えていたボリバルにとって、これは到底受け入れることのできない条件だった。


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