シベリア抑留
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ロシア人らは自分らと同等もしくはそれ以上に食料を与え、同じ寒さの中で働くのに日本人の犠牲者が多いことを訝っていたという話もあり、長勢は慣れない黒パンと雑穀などが日本人に合わなかったと見ている[49][注釈 3]。いずれにせよ、食料の問題は死亡率の高さから改善され、二年目からは死亡者は激減している。

共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、日本共産党の隠れ党員だったりした捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として『日本しんぶん』が発行された。「日支闘争計画#コミンテルン1928年テーゼ」および「自己批判#共産主義」も参照

共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った[50]。彼らの中には捕虜達からシベリア天皇と呼ばれた者もいる。有名な者には浅原正基[51]袴田陸奥男[52][53][54][55][要ページ番号]がいる。

民主運動」による批判・糾弾活動も当初は、旧軍隊時代やその支配体制がまだ残っていた初期の収容所で下級兵士らを虐待したり、地位を利用し食べ物の上前をはねる等の不正を働いていた将校・上級下士官等が対象であったが、次第に対象は拡大、事実上ささいな理由を見つけて行う等無差別化[56]、あるいは「革命」や「階級闘争」に引込むため、あえて兵卒や下級下士官に将校や上級下士官を糾弾させることもしばしばあり、自身が新たな批判・糾弾の対象とならないため、心ならずも競争するかのように「民主運動」に参加した者も多かったとみられる。一方、志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる[57]ラストヴォロフ事件も参照)。

当初は収容所側は多くがノルマ達成のため、統制に都合が良いとみて元日本軍の旧階級による上下構造の温存を事実上認める措置をとっていた[58]。しかし、1947年1月頃から一部収容所で闘争的な民主運動が起き、ソ連側もこれが寧ろ利用できると考えたのか、やがて他の収容所でも民主運動を後押しする方向に転換している[56]。シベリア抑留での死者は大部分が1年目の最初の冬に集中していて、富田武は、このときが転機で、兵士らが飢えと重労働に苦しむ中で将校らは労働は免除され食物は兵士より恵まれ、旧軍隊そのままに兵士らを虐待していたことで不満が昂じ、(穏健な形のものからだったが)民主化が始まったとする[59]。死者数の多さに驚いたソ連側により収容者の待遇自体は改善が図られ、死者数は減少したが、一方で、将校・上級下士官らの虐待・しわ寄せが下級兵士らの死亡を招き、作業効率を妨げていることに気付いた収容所によって将校らと下級兵士らの居住分離が行われ、将校らによる支配統制が及びにくくなった[60]。そのため戦闘的な民主運動は2年目の冬の1947年1月に入った頃から始まり出している。

なお、抑留中、2年目の冬以降にも多数の死者が出た事件として知られるものに「暁に祈る」事件がある。この事件は、自分に任せれば基準ノルマを超える成果を達成してみせると、自身を収容所側に売り込み、抑留者らの隊長となった旧日本軍下士官(元憲兵曹長)によって引き起こされている。この事件はソビエト・モンゴル地区で起こっており、モンゴル地区では民主運動はなかったという[61]

共産主義の労働ノルマに対する報酬、資本主義との違いゆえ、捕虜達の中にはストライキを起こした例もあり、小峰国保は不当に仕事量を増やされていたことが発覚し、待遇は後に改善されたと記す[62]
ウズベキスタン

ソビエト連邦構成共和国の一つであったウズベク・ソビエト社会主義共和国では、約23000人もの日本人捕虜が現在のウズベキスタンの地に強制連行され、そこで強制労働させられた[63]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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