シド・ヴィシャス
[Wikipedia|▼Menu]
1976年9月21日、イベントThe 100 Club Punk Special(英語版)でダムドが演奏中に何者かが投げたグラスが柱に当たり、その破片によって観客の女性が片目を失明するという事件が発生した。このときシドはグラスを投げた犯人として逮捕されたものの、証拠不充分により告訴は取り下げられ釈放されている。しかしスリッツのヴィヴ・アルバーティン(英語版)は彼女の自叙伝の中で「グラスを投げたのは俺だ」と1年後になってシドが告白していたことを明かしている[4]

シドとジョニー・ロットンはファッション関係の専門学校時代からの友人でもあった。その縁もあってセックス・ピストルズ初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックが脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラーレンの誘いにより、後任のベーシストとなった。当時ピストルズのメンバー間では、スティーブ・ジョーンズポール・クックは非常に仲が良く、常に行動を共にしており、ポールとスティーブ、グレン、ロットンという対立の構図があった。マネージャーのマルコムは仲を取り持つ事をせず、メンバー同士をいがみ合わせるように流言した。

グレンと折り合いが悪かったジョニーは、グレンの脱退後にスティーブとポールに対して発言権を強めたい目論見もあって親友であったシドをベーシストにと強力にマクラーレンにプッシュしたのである。

なおジョニーは、この件の直前にダムドのフロントマンとしてオーディションを受けており、最終選考まで残っていた。しかし最終選考日に寝坊してすっぽかした為、ダムドのフロントマンになり損ねている。
解散後

ジョニー・ロットンが脱退後、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのカヴァー曲を収録したシングルをリリース。シドの死後にリリースされたライブ・アルバム『シド・シングス』には、「マイ・ウェイ」のスタジオ録音バージョンも収録された。

セックス・ピストルズにおける最後の音楽活動は「ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル」におけるレコーディングである。この頃のシドは、パリでの「マイ・ウェイ」の撮影時も既に重度のドラッグ依存により、正常に行動するのが困難な状態になるまで体は痩せ細り、歌詞を憶えさせて1曲収録するのに1週間近くかかるほどに衰弱していた。

その後は、ピストルズの初代ベーシストであるグレン・マトロックや、憧れであったジョニー・サンダースらと一時的に組み、ライブを行っている。

ただしジョニー・サンダースとのステージでは、同じジャンキーであるサンダースからしても、ドラッグによるシドへの悪影響はステージ上にも及んでおり、そのためライブに対応できない、保てないシドを途中で降板させている。この一件は激しく彼を失意に落とした出来事であると言われている。

1978年、シドはジョニー・ロットンと和解し、2人で新たなバンドを結成する話を持ちかける。ロットンも話に乗っていたのだが、恋人のナンシー・スパンゲンが間に入り、「そのバンドのフロントマンはシドじゃないと」と譲らず、ジョニーが「じゃあ、俺は何をやるのさ?」と問いかけると彼女は「あんたはドラムでもやったらいいわ」と返したため、ナンシーの横暴とドラッグを断てないシドの為に頓挫した。同年9月にニューヨークへ渡ったシドとナンシーは、ナンシーの働きかけにより、マクシズ(英語版)で3度ライブを行う。連日ライブハウスは超満員であったが、シドはドラッグ依存の影響で立っているのがやっとで、マイクスタンドにしがみついている状態で、時折ステージ上で倒れこんでしまう。さらには歌詞を思い出せず、歌詞カードを手に持ち歌わなければならず、ついには1曲もまともに歌う事も叶わず、観客からも冷やかな反応を受ける。3日目のステージではザ・クラッシュミック・ジョーンズと共演している。この辺りからシドとナンシーは死を口にする事が多くなり、彼女は自殺を図るなどするようになる。シドはラストライブの後に、ハードドラッグによるオーバードーズにより、意識を失い入院する。その為に「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」撮影のリオデジャネイロ行きの飛行機に乗れずに、スティーブやポールとは合流せずに不参加と終わる。

1978年10月13日、ニューヨークにあるチェルシーホテルバスルームでナンシーの死体が発見された。真相は明らかでないが、凶器のナイフ[5]がシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したと言われている。しかし、ナイフは指紋が拭きとられている状態であったり、シドの元に入ったばかりの「マイ・ウェイ」の印税2万ドルが全て無くなっているなど、不可解な状況であったと言われる。

シドはナンシー殺害の時刻には、ツイナールの過剰摂取による昏睡状態となっていた。後に医師らにより、服用した量から類推するに5時間は昏睡状態であったと言われている。その間、部屋には複数人の出入りも確認されており、その際にシドが昏睡している事を証言している。シドは昏睡状態から意識を取り戻すと血だらけで死亡しているナンシーを見つけ、ホテルのフロントに連絡している。一説には、ナンシーにドラッグを売っていた男が、彼女の死の前日には1杯の酒代をせびっていたにもかかわらず、殺害の翌日には新品のブーツレザーパンツ姿でバーに現れ、血の付いたシャツを見せびらかしていたという話や(後にこの人物はナンシー殺害を仄めかす発言や、彼女を殺害した場面をVTRに収めており、それを販売してひと儲けするような話をしていたというが、真相が明らかになる前に病死している)他にも2人が自殺を図り、昏睡したシドを死んだと思ったナンシーが自殺したという説もあるが、指紋が拭きとられて置いてあったナイフと、消えた2万ドルの謎とは結びつかない。この時期のシドとナンシーは互いを殴り罵る激しい喧嘩を繰り返していた。またナンシーは腎臓を病んでおり、その苦痛の激しさから逃れることも兼ねてハードドラッグに縋っていたという[6]

シドとナンシーの暮らしたチェルシーホテルの一室は、事件後に「パンクのロミオとジュリエット」神話の崇拝者達の巡礼地と化したことに困惑したホテル側により取り壊され、ランドリー室に作り替えられている。部屋番号も欠番扱いとなり、数字が飛んでいる。

事件後にシドは逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒動を起こした末、1979年2月2日、遂にドラッグのオーバードーズにより死亡した[7]。ナンシー殺害の裁判が結審する前の出来事であった。シドが死に至った直接的な原因は、収監され完全にヘロインが抜けきった体へ、高純度のヘロインを収監以前に打っていたのと同じ感覚で大量摂取した事によるものとされる。そのヘロインは、その夜シドに哀願された彼の母親が渡した物だった。

死後、シドの革ジャンのポケットから直筆の遺書らしきメモが発見される。

『私達は死の取り決めがあった。

一緒に死ぬ約束をしていた。

こちらも約束を守らなければいけない。

今からいけば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。

お願いだ。死んだら彼女の隣に埋めてくれ。

レザージャケットとバイクブーツを死装束にして…さようなら』

と記されていた[8]

シドの母親は、ナンシーの墓の隣に埋葬して欲しいという息子の遺言を果たそうとするが、ナンシーの両親に拒絶されたためにシドの墓を掘り起こし、彼の遺灰をナンシーの墓に撒いてシドの思いを果たした。なお、ジョニー・ロットンがインタビューにて語った「シドの母親がシドの遺灰をヒースロー空港で転んでぶちまけたので、彼の魂は空港で彷徨っている」という話は嘘である。
人物

身長6フィート1インチ(約185cm)体重 7ストーン(約45kg)*ライカーズ刑務所収監時[9]

過激な伝説とは裏腹に、本来は非常に気弱で礼儀正しい青年であったとも言われている。ピストルズ加入以前にシドは、そのファッションセンスとスタイルの良さからヴィヴィアン・ウエストウッドに寵愛され、目立つ存在であった。またシド・ヴィシャスという芸名を非常に気に入っていて、自身が大好きであったマーベル・コミックのヒーローに準えて振舞っていた。ただし彼独特の思考で行動しており、既存の社会通念やルールといった括りを一切無視していた為に、周りからは困惑されうる人物であった。シドは、自身がロットンや観客に求められているイメージのままに行動する事に喜びを感じており、やがてサイモンではなくシド・ヴィシャスそのものへと変わってしまったと母親は語っている。

セックス・ピストルズ時代は専らライブではステージ上から客を挑発し、エキサイトして向かってきた客と殴りあう事が多かった。アメリカツアー当初は当局への配慮から厳しく「ハード・ドラッグ禁止」を通達されており、監視下でシドのヘロインへの渇望と禁断症状は激しいものだった。ペパーミント・シュナップスを2本空けても喉の渇きは治まらず、終始汗まみれで汗と冷や汗を交互に掻き、立ったと思ったらまた座り、今度は横になったままといったような事を繰り返していた。やがて禁断症状の限界に達し、ダラスでのライブにて胸に剃刀で「Gimme a Fix」と刻み、客席から投げ込まれた物で鼻血まみれになりながらベースをプレイしている姿は有名である。そのパンクを地で行く生き様は多くの若者の支持を集め、後期ピストルズのステージ上では、シドの悪ふざけが過ぎるパフォーマンスの方に注目が集まるようになっていく。特にアメリカツアーにおいてはジョニー・ロットンがインフルエンザで精彩を欠いていた事もあり、ライブでの群集はステージ下手側(シドの立ち位置)に詰めかけるようになっていく。

セックス・ピストルズ=ロットンの図式から序々にバンド内の人気を二分していった。シドがヘロインなどの強い麻薬に溺れたのも、元はナンシーがハートブレイカーズと共に英国シーンにもたらしたとも言われている。しかしながらシドの母親が重度の麻薬依存者であった為、ナンシーと出会う以前からスピードツイナールといった薬物は使用していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef