シド・ヴィシャス
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やがて禁断症状の限界に達し、ダラスでのライブにて胸に剃刀で「Gimme a Fix」と刻み、客席から投げ込まれた物で鼻血まみれになりながらベースをプレイしている姿は有名である。そのパンクを地で行く生き様は多くの若者の支持を集め、後期ピストルズのステージ上では、シドの悪ふざけが過ぎるパフォーマンスの方に注目が集まるようになっていく。特にアメリカツアーにおいてはジョニー・ロットンがインフルエンザで精彩を欠いていた事もあり、ライブでの群集はステージ下手側(シドの立ち位置)に詰めかけるようになっていく。

セックス・ピストルズ=ロットンの図式から序々にバンド内の人気を二分していった。シドがヘロインなどの強い麻薬に溺れたのも、元はナンシーがハートブレイカーズと共に英国シーンにもたらしたとも言われている。しかしながらシドの母親が重度の麻薬依存者であった為、ナンシーと出会う以前からスピードツイナールといった薬物は使用していた。
音楽

ピストルズに加入前はフラワーズ・オブ・ロマンススージー・アンド・ザ・バンシーズにてドラムを担当。スージー・アンド・ザ・バンシーズのデビューライブではシドがドラムを叩いている。

ピストルズに加入した当初は全くベースを弾いたことがなかったが、加入してからベースプレイに精を出し、初期のライブではベースの位置は高いながらも曲に合わせて弾いているのが確認が出来る。しかし、その後ナンシー・スパンゲンと知り合ってからは、ベースの練習も投げ出し2人で麻薬に溺れるようになっていってしまった為、結果として上達はしなかった。

一方、現存する数少ないシド在籍時のライブビデオ(特にスウェーデンにおけるライブは最良とも言われる)では、彼のベースプレイが確認できる。またエリザベス女王25周年祭の船上ライブ映像でも、しっかりとしたベースプレイをしている事が確認できる。もっとも音源がポピュラーであるラストライブとなったサンフランシスコのウィンターランドでのライブ音源、映像を確認しても、噂に反して彼がしっかりと演奏をしているのが確認できる。「ベースが弾けない」というのは、ピストルズ特有の流言、一種のフェイクプロモーションの意味もあったのではないかとの説もある。

「一切ベースを弾けなかった」という噂の反面、作曲における才能はピストルズの「Bodies」などで発揮するなど、天性の才能を持ち合わせていた一面もあった。この曲の作曲経緯についてはスティーヴ・ジョーンズが1990年MTVのインタビューにて語っている。また「Belsen was a gas」もシドによる楽曲の一つであり、死後に彼がいくつかの楽曲の構想を書き記した物も見つかっている。

グルーピーからヘビードラッグの提供を受けるようになった彼は急激に麻薬への依存度が高くなり、ライブ中も立っているのがやっとだったという。ある時は4本あるベースの弦のうち3本の弦が切れているのにも気がつかずに掻き鳴らす状態で、怒ったスティーブ・ジョーンズがアンプを切ったという逸話も語られている。

白ボディに黒ピックガードのプレシジョンベースを使用していた。これは彼が熱狂的なラモーンズファンだった為、ベーシストのディー・ディー・ラモーンと同系統のものを使用している。アメリカツアー初公演のサンアントニオのライブでは集まった2200人強のメキシコ人がピストルズに対する敵意をむき出しにし、ステージに詰め掛けた為、シドはライブの途中でベースを斧のように構えて客席を威圧し、何度もベースを振り回し、時には掴みかかる客に殴りかかっていきステージ防衛をしなければならなかった。またテキサス州ダラスにおけるライブでは、ピストルズのライブにエキサイトし、ステージに上がってきた客の肩口を愛用のベースで殴るという事件も起こした。

ジョニー・ロットンはシド・ヴィシャスにおけるセックス・ピストルズへの音楽的な貢献はなかったと語っている。売り上げで言えば、シドのシングル「Something else」は、発売後2週間で38万2000枚のリリースを記録している。この記録はセックス・ピストルズの楽曲のうち最大のヒット・ソングであった「God save the queen」を10万枚以上も上回り、事実上のセックス・ピストルズ関連楽曲ではNO.1セールスとなっている。ちなみにロットン脱退後にセックス・ピストルズ名義でリリースされた「MY WAY」は、指名手配犯のロナルド・ビッグズとの「No one was innocent」とカップリングでのリリースであったが、フロントマンが指名手配犯だったこともあって公共の放送は見合わされた。最高位7位のチャートを記録し、セックス・ピストルズの「Pretty vacant」と同等の成績を残した。これにより「カモン・エヴリバディ」の制作が決定した。なお、「MY WAY」の一節には脱退したロットンを馬鹿にする内容の歌詞がシドにより盛り込まれている。
ファッション

「R」が刻印されている香港・ラビット社の南京錠のネックレスとリング・ベルトをトレードマークとして身につけていた。上記の映画『シド・アンド・ナンシー』ではナンシーからのプレゼントとして演出されているが、実際には後にプリテンダーズを結成するクリッシー・ハインドからのプレゼントであった。

鎖のチョーカーのそのネックレスは、日本においては「シド・チェーン」と呼ばれ、2023年現在でも通用する単語となっている。リングベルトは日本においては「シド・ベルト」と呼ばれ、ジョーン・ジェットからのプレゼントであった。元々はSMグッズの中の一つであった。

アメリカツアー時に愛用したロングブーツはチペワ製の17インチ(筒長)のエンジニアブーツ(型番27909)であった。これは、シド憧れの人物であるジョニー・サンダースが愛用するブーツと同様であった為、ツアー移動中のバスの中において持ち主であったボブ・グルーエンが居眠りしている隙に拝借し、その履き心地が気に入り、手放したくなくなったシドがグルーエンの喉元にナイフを突き付け強引に自分の物にしている。

同様に愛用していたレザージャケットは50年代後期?60年代初期頃に販売された、PENNEY'Sのツースターモデルのヴィンテージで、スティーブ・ジョーンズから譲り受けたといわれており、左胸にスタッズにてSteveと書かれている。右胸にはアメリカ陸軍の帽章が飾られている。

右足の太ももを飾っていたのは女性用のキャットガーターでアメリカツアー時は外周が黒のレースに赤いレースでセンター帯が入り、赤いリボンが付き、リボンの外周には黒いレースが付いていた。映画『ロックンロール・スウィンドル』では、白のレース帯の外周に黒いレースが付き、白いリボンを解けた状態で長く垂らしていた。
肉親

シドの母アン・ビヴァリーはマクラーレンとの調停により1986年には25万ポンド、以後毎年10万ポンドをシド・ヴィシャス関連グッズの印税として受け取っていた。しかしその後は病苦に悩まされ、1996年9月6日に64歳で服毒自殺を遂げた。自殺に際しあてた遺書には、ピストルズ再結成の記者会見の席でロットンが発した「シドが生きていたってクソの役にも立たないぜ!あいつは(革ジャンをかける為の)ハンガーさ!ただの役立たずだった。」という発言に対する怒りと「シドが可哀想…草葉の陰であの子は泣いて居るわ」と記している。


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