シド・グローマン
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グローマンがロサンゼルスに建設した3つの映画館のうち、最初の映画館であるミリオンダラー・シアター(英語版)が1918年にオープンした[16]。1921年に父デイヴィッドがロサンゼルスで急死した。当時建設中だったエジプシャン・シアターは、その翌年に完成した[17][18]。グローマンは1926年にチャイニーズ・シアターの建設に着手し、1927年5月18日にオープンした。備品の多くを中国から取り寄せ、中国の職人が壁面の彫刻を製作した[19]

チャイニーズ・シアターの前庭には、セメントタイルに芸能関係者の手形・足形とサインを残す慣習がある。この慣習は、建設中のチャイニーズ・シアターを見学に来たある女優が、まだ乾いていないセメントを誤って踏んでしまったという偶然から始まったものである。その女優については、メアリー・ピックフォードとする説とノーマ・タルマッジとする説がある。そのほか、グローマンはラジオのインタビューで、自分自身が誤ってセメントを踏んだときにこれを思いついたと語っている[20]。グローマンは、これはスターの記録を永久に残す素晴らしい手段だと考え、選ばれた映画界の著名人を招いて、セメントに手形・足形を残すことを始めた。人選はグローマン自身が行っていたが、グローマンの死後もこの慣習は続いており、人選の基準は公開されていない[21][22]

チャイニーズ・シアターは正式には「グローマンズ・チャイニーズ・シアター」と言い、グローマンの名が冠されているが、グローマンが単独で保有していたわけではない。グローマンのビジネスパートナーは、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、ハワード・シェンクだった。開館の2年後、グローマンは自身の持ち分をフォックス・フィルムの子会社のフォックス・ウェストコースト・シアターズに売却したが、そのマネージング・ディレクターの職は生涯維持した[5]。現在、チャイニーズ・シアターには年間400万人以上が訪れている[19]

グローマンは興行以外の事業も行ったが、これらは成功しなかった。サウスダコタ州デッドウッド近郊で金の採掘を行うブラックヒルズ・エクスプロレーション社を設立し、アル・ジョルソンや映画会社を説得して、この会社への出資を依頼した。しかし、事業は成功せず、グローマンは出資の引き上げを勧める羽目になった[23]

グローマンはハリウッドスターたちからよく知られており、特にロスコー・アーバックルら多くのスターたちと親しくしていた。女優の強姦殺人容疑で起訴されたアーバックルが警察に出頭の電話をかけたのは、ミリオンダラー・シアターの事務所からだった[24]。無罪判決を受けたものの一連の騒動で映画界から追放されたアーバックルは、グローマンの劇場でR・C・アーバックルと名乗ってヴォードヴィル歌手として舞台に復帰した[25]チャールズ・チャップリンやメアリー・ピックフォードなどのスターが駆け出しの頃にサンフランシスコのグローマンの劇場で公演したことがあるため、グローマン親子はこれらのスターとの繋がりがあった。ピックフォードに「アメリカの恋人」というニックネームをつけたのはデイヴィッド・グローマンである[26]

グローマンは生涯結婚せず、母ローザに献身した。ローザは、著名人以外では唯一、チャイニーズ・シアターの前庭にセメントタイルが設置されている。1936年のローザの死後、その私物はグローマンが全て保管した[2][7][27]。グローマンは、様々な映画にカメオ出演していた[28]グローマンの手形・足形

家を持たず、35年間に渡りロサンゼルスのアンバサダーホテルで生活していた。最期の6か月間は、シーダーズ・サイナイ・メディカル・センター(英語版)に入院していた。特に病気や怪我をしていたわけではなく、昼は様々な高級レストランで食事をし、夜は寝るために病院に戻っていた[29]

グローマンは映画芸術科学アカデミー(AMPAS)設立者36人のうちの一人である[30]。1948年、映画興行の水準を高めた功績によりアカデミー名誉賞を受賞した[31]ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにグローマンの星が設置されている[1]
死去とその後

グローマンは1950年3月5日にシーダーズ・サイナイ・メディカル・センターにおいて、冠動脈閉塞(英語版)により70歳で死去した[32][4][5][33]。遺体はカリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン記念公園(英語版)に埋葬された[34]

グローマンの死の直後、当時48歳のキャリー・アデア(Carrie Adair)という女性が、自分が1920年代にグローマンと同棲しており、グローマンとの間の娘もいると主張した[35]。キャリーは、グローマンの遺言の写しと、グローマンの幼馴染であることを示す手紙を提示した。キャリーの姉妹のアグネス・ガーリックは、キャリーがグローマンと同棲していたと主張する時期に、キャリーはテキサスに住んでいたと証言した。また、キャリーがグローマンとの娘だと主張する子供は、実際にはキャリーではなく自分の娘であると述べた[36][37]。キャリーはグローマンの全ての遺産を請求して訴訟を起こしたが、内縁関係は証明されず、娘とされる人物の親族関係も否定された。グローマンは遺書を残しておらず、友人たちには「遺書を残すような男は早死する」と普段から言っていたという[38]
脚注^ a b “ ⇒Hollywood Walk of Fame Star-Sid Grauman”. Los Angeles Times. 2011年6月5日閲覧。
^ a b “Death Ends Hollywood Mother And Son Idyll”. The News-Sentinel. (1936年6月11日). https://news.google.com/newspapers?id=CoVYAAAAIBAJ&pg=1056,5744048&dq=sid+grauman&hl=en 2011年6月5日閲覧。 
^ a b c d e f g h i j Saperstein, Susan. “Grauman's Theaters”. sfcityguides.org. San Francisco City Guides. 2017年9月22日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2011年6月5日閲覧。
^ a b “Sid Grauman Dies; Cinema Showman”. Youngstown Vindicator. (1950年3月6日). https://news.google.com/newspapers?id=wI5IAAAAIBAJ&pg=774,1282343&dq=sid+grauman&hl=en 2011年6月5日閲覧。


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