人口は2019年6月時点で530万人を超えている。都市圏人口は410万人であり、世界104位、オセアニアでは首位である[33]。 国別海外出生者数 2006年国勢調査によれば、シドニー都市圏の人口は3,641,422人で、シドニー統計区域の人口は4,119,190人であった。統計区域は成長を加減して算出された推計値を基にしたため、都市圏よりも人口が大きくなっている。シドニー市内の人口密度は、4,023人/km2で国内最大である。市民は一般的に「シドニーサイダー」と呼ばれる。2006年国勢調査によれば、シドニー居住の民族としては主に、イングランド系、アイルランド系、スコットランド系及び中国系であった。また、先住民アボリジニは全体のうち2%、海外出生者数は同じく31.7%であった。 主たる移民の出身国は、イギリス、中華人民共和国及びニュージーランドである。また、ベトナム、パキスタン、レバノン、イタリア、インド及びフィリピンからの移住者数も多い。英語を第一又は第二言語としている市民が多いが、アラビア語(レバノン系が優勢)、中国語(ほとんどが北京官話、上海語、広東語)、イタリア語話者も多い。シドニーは、世界でも高度な多文化都市であるロンドンやパリよりも海外からの移住者が多く、移住者数は世界第7位である。宗教は2006年国勢調査によると、調査対象者のうち64%はキリスト教徒、14.1%は無宗教、10.4%は無回答、3.9%はムスリム、3.7%は仏教徒、1.7%はヒンドゥー教徒、0.9%はユダヤ教徒であった。 また、住民の平均年齢は34歳と若く、65歳以上の高齢者層は全体の12%であった。 シドニー湾沿岸には少なくとも4万年前からアボリジニが定住していた。シドニーの古地図(1789年) ヨーロッパ人の関心がこの地域に向かうのは、1770年のジェームズ・クックによるポート・ジャクソン湾の望見の後である。イギリス人による最初の入植は1788年1月20日で、アーサー・フィリップ総督によってこの「小川に近い、入り江の湾頭」はオーストラリア最初の植民地として定められた。フィリップは当初この地を「アルビオン」と呼ぶ意向であったが、シドニー入江に由来する「シドニー」が一般的に用いられるようになった。入江(シドニー・コーブ)はフィリップの命名で、彼の後援者であったシドニー卿(シドニー子爵)トマス・タウンゼントにちなんだものである[34]。このことは植民地開設の特許状がシドニー卿の斡旋で交付されたことに由来すると思われる。新植民地の初期の人口は1000人を超える程度で、当地は流刑植民地であったことからその大部分は囚人であった。食料生産のため、20km西のパラマタにも入植地が設置された。
人口統計
出生国人口 (2006)
イギリス175,166
中華人民共和国109,142
ニュージーランド81,064
ベトナム62,144
レバノン54,502
インド52,975
フィリピン52,087
イタリア44,563
香港36,866
大韓民国32,124
ギリシャ32,021
南アフリカ28,427
フィジー26,928
マレーシア21,211
インドネシア20,562
イラク20,216
ドイツ19,364
スリランカ17,917
アメリカ合衆国16,340
エジプト16,238
クロアチア15,501
歴史
1822年にはすでに銀行、市場、発達した道路網、警察隊を備えた町となった。
1833年、町の行政は3人の行政官の手に委ねられた。
1842年には自治体として成立した。
1847年には囚人が人口にしめる割合はわずか3.2%にまで低下した。当時シドニーにはヨーロッパより週ごとに船が来航し、イギリスや他のヨーロッパからの移民が到着した。囚人の人口が減少するにつれ、商業活動が活発化した。
1850年にはオーストラリア初の大学であるシドニー大学が創設。
1855年にはシドニーと西郊のパラマタとを結ぶ鉄道が開通。
1883年にはシドニー及びメルボルンを結ぶ鉄道路線が開通したものの、両植民地の鉄道軌間は異なっており、直通路線の開通は1962年まで待たねばならなかった。