1830年に即位したフェルディナンド2世も反動政治を継続した。1848年にフランスで勃発した2月革命はヨーロッパ中に伝播するが、イタリアではそれに先立って革命運動が勃発した。シチリアで反乱が起き、その動きがナポリにも及んだのである。これに驚いたフェルディナンド2世は内閣を改造させて、自由主義的な憲法を発布した。一方のシチリアでは、ルッジェーロ・セッティモを首相とする臨時政府の樹立を宣言した。臨時政府はシチリアの完全独立を目指していた。
これらの動きに対し、フェルディナンド2世はクーデターを起こして自由主義者を閣内から追放するとともに、自由主義的な新聞を廃止して引き締めを図った。1849年にはシチリア臨時政府を潰して反動政治を完全に復活させた。一見、成功したかに見えるフェルディナンド2世の政策であったが、時代の流れを止めることは出来なかった。
滅亡とイタリア統一「イタリア統一運動」も参照
1859年にフランチェスコ2世が王位を継承する。その頃、イタリアではサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とその宰相カヴール伯爵カミッロ・ベンソがサヴォイア家の下でのイタリア統一を目指し、諸王国を次々と併合していったが、最大の障壁が両シチリア王国だった。そのような状況下で、シチリアの分離独立の動きは絶好の好機であった。
1860年5月11日、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる赤シャツ隊がシチリアに上陸した。裏をかかれたボルボーネ軍はカラタフィーミの戦いで敗北した。5月27日にはパレルモに赤シャツ隊が突入して、壮絶な市街戦となった。市民の中には赤シャツ隊に呼応する者も多く、ボルボーネ軍は休戦協定を結んだ後にメッシーナへ後退した。7月20日のミラツォの戦いで、ボルボーネ軍は決定的な敗北を喫し、シチリアはガリバルディの手に落ちた。
シチリア失陥の報を聞いたフランチェスコ2世は、メッシーナ海峡の守備を固めて上陸に備えたが、ガリバルディは隙を見てナポリ本土に上陸する。フランチェスコ2世はナポリをガリバルディに明け渡し、ガエータの要塞に籠った。ここでは王妃マリア・ソフィアの活躍が目立った。マリアは自ら戦場に出て督戦し、負傷者を運んだり、食物を分け与えた。マリアの奮戦も空しく、1861年にガエータも陥落して、両シチリア王国は滅亡した。フランチェスコ2世はローマに亡命するが、そのローマも1870年にサルデーニャ王国に併合され、さらにパリへ逃れた。 イタリア王国成立後も南イタリアではボルボーネ朝復辟を求めてたびたび反乱が起きた。マリアもその動きを積極的に支援したが、成功しなかった。それでもボルボーネ家の復活を求める動きは現在の南イタリアにも存在する。 最後の国王フランチェスコ2世には子供がなく、その弟アルフォンソの家系が両シチリア王国滅亡後の家督を継承している。ただし、2つの家系に分裂して、両シチリア・ボルボーネ家家長の地位と王位請求権を争っている。 カルロ7世/5世/カルロス3世
その後
歴代君主
ナポリ王・シチリア王
カルロ7世/5世(1735年 - 1759年)
フェルディナンド4世/3世(1759年 - 1815年)
両シチリア王
フェルディナンド1世(1815年 - 1825年)
フランチェスコ1世(1825年 - 1830年)
フェルディナンド2世(1830年 - 1859年)
フランチェスコ2世(1859年 - 1860年)
系図
ナポリ王・シチリア王
のちスペイン王 マリア・アマリア・ディ・サッソニア フランツ1世
神聖ローマ皇帝
トスカーナ大公 マリア・テレジア
オーストリア大公
ハンガリー・ボヘミア女王
フェリペ
カラブリア公 カルロス4世
スペイン王 フェルディナンド1世 マリア・カロリーナ ヨーゼフ2世
神聖ローマ皇帝 マリア・ルドヴィカ レオポルト2世
トスカーナ大公
のち神聖ローマ皇帝
フェルナンド7世
スペイン王 フランシスコ・デ・パウラ
カディス公 マリア・イザベッラ フランチェスコ1世 マリア・クレメンティーナ マリア・テレーザ フランツ2世