シク教
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シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった[34]
英領時代

英領となった後、セポイの乱においてシク教団はインドを植民地支配するイギリス政府に協力。以後、シク教徒は植民地政府からは事実上の中間支配層として扱われ、イギリスとの協調路線をとって繁栄していく事となった。1919年にはそれまでイスラム教徒のみに認められていた分離選挙がシク教徒にも認められ[35]、シク教からの宗派代表選出に道が開かれた。1920年にはシク教の政治団体としてアカリ・ダルが結成された[36]第一次世界大戦後にヒンドゥー・イスラーム両教の対立が激しくなるとシク教も独立国「カーリスターン」の建国を望み、1940年及び1944年には正式にその要求がなされたものの、当時のパンジャーブ州の人口のうちシク教徒は10%未満にとどまっており、50%以上のムスリムや40%弱を占めるヒンドゥー教徒を無視して建国を行うことは不可能だった[37]。結局1947年インド・パキスタン分離独立に際し、シク教団はインド帰属を選択したが、これはパンジャーブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒の追放を招き、ヒンドゥー教徒とともに多数のシク教徒が難民となってインドへと流入することとなった[38]。また、開祖ナーナクの生まれたナンカーナー・サーヒブや、シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することとなった[39]
インド独立からパンジャブ州分割

独立したインドはジャワハルラール・ネルーのもと政教分離を国是として掲げた。これはインドが多数の宗教をともかくも共存させる姿勢を取ったことを意味し、少数派たるシク教が迫害されるようなことはなかったが、一方でこれは宗教上の理由での分離運動を認めないことを意味した[40]ため、独立国や自治権の拡大を望んだシク教徒の一部とは対立することとなった。また、英領インド時代には認められていたシク教徒への分離選挙も、1950年に施行されたインド憲法において撤廃された[41]

パキスタンから流入した大量のシク教徒難民は、主にこの地方から流出したムスリムが放棄した農地へと再定住が行われた[39]。この結果、特にパンジャーブ州西部においてシク教徒の割合を急増させることとなり、同州におけるシク教徒の割合は35%にまで上昇した[42]。これを受けて宗教政党のアカリ・ダルはインド全土に広がっていた言語州要求運動に加わり、パンジャブ語話者が多数を占める新州の設立運動を1951年に開始したが、インド政府はこれをシク教新州の設立運動とみなして警戒し[43]、1956年に言語州への再編が行われたときもパンジャブの州再編は行われなかった[44]。この言語州運動は1966年にようやく結実し、旧パンジャーブ州はヒンディー語話者・ヒンドゥー教徒が多数を占める東部のハリヤーナー州と、パンジャブ語話者・シク教徒が過半を占める西部の新パンジャブ州へと分割された[44]
黄金寺院事件詳細は「ブルースター作戦」を参照

パンジャブ州分割後、アカリ・ダルはヒンドゥー至上主義のインド大衆連盟(英語版)(ジャナ・サンガ)と連立して1967年に州政権を奪取したが、1971年には国民会議派に敗れ下野した[45]。1977年には再びこの連立が州の与党となり、彼らはハリヤーナー州と共用していた州都チャンディーガルのパンジャブ州編入や水利権などの要求を中央政府に行った[46]。しかしこの交渉が難航するなか、1970年代後半には急進派宗教指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが台頭して、シクの分離主義が急速に強まった。1980年代に入るとシク急進派は反対派に対するテロを頻発させるようになり、パンジャブの治安が悪化。これに対しインド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移した[47]が情勢は好転しなかったため、1984年にはシク教徒の聖地・黄金寺院にたてこもるビンドランワレと過激派を排除するためインド政府軍を投入してブルースター作戦(黄金寺院事件)を起こし、6月6日にビンドランワレを殺害した[48]

この事件はシク教徒の強い反発を招き、1984年10月31日にはシク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相が暗殺された。さらにこの暗殺はヒンドゥー教徒側を激怒させ、インド各地でシク教徒への迫害が行われた[49]。その後もテロの連鎖は続き、1985年6月23日にはシク教徒によるインド航空182便爆破事件が起こった。ラジーヴ・ガンディー首相は同年7月にアカリ・ダルと合意を行って直接統治を解除し、9月には再びアカリ・ダルの州政府が誕生した[50]がテロの連鎖は続き、1987年には再度州の自治権が取り上げられて大統領直接統治下に戻った。1992年に直接統治は解除されたものの、選出された州首相は暗殺された[51]。しかしこのころを最後に急進派のテロは沈静化し、パンジャブ州の治安は回復に向かった[51]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}パンジャーブ警察の署長の指示により過激派は全員射殺された[要出典]。
平和の回復インド空軍栄誉礼。シク教徒はターバンを着用している。

1997年にはアカリ・ダルがパンジャーブ州の政権を獲得したが、2002年には国民会議派に敗れ下野した[30]

2018年11月28日、パキスタン政府はシク教徒の巡礼用に、同国中部のパンジャブ州ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した[52]。ナーナクが没した地とされる寺院へインドから行けるようにするためであるが、着工式典でパキスタン陸軍参謀長がインドからの独立を目指すシク教活動家と握手する映像がテレビ中継されたことから、インド陸軍やインドのメディアがパキスタンを批判した[1]

今まではインド国境から約4qの寺に行くのにインドのシク教徒はビザを取り寺から約70q離れた国境の検問所を通るか空路で近郊都市から入るしかなかったが、回廊が出来ビザ無しで巡礼できるようになった[53]

インド軍では通常の制帽の他、シク教徒の兵士用として「制式ターバン」が設定されている。
著名人

マンモハン・シン(インドの首相)

パーミンダ・ナーグラ(イギリスの女優)

チャダ(インドの演歌歌手、音響機器会社の社長)

タイガー・ジェット・シン(プロレスラー)

マダンジート・シン(外交官、芸術家)

ダレル・メヘンディ(歌手)

ミルカ・シン(陸上競技選手)

脚注[脚注の使い方]^ a b 「(世界発2019)シーク教の巡礼道、印パに新たな火種: パキスタン側へ4キロ、ビザ不要」国際面、『朝日新聞』(朝日新聞デジタル)、2019年1月10日、朝刊。2019年1月16日閲覧。「■着工式に独立派リーダー、インドは「策謀だ」」
^ a b c d e f g ネズビット 2006, pp. 66?71.
^ Sikhism - Sects and other groups - Encyclopadia Britannica
^Religion demographics: 2011 Census, Office of the Registrar General & Census Commissioner, Ministry of Home Affairs, Government of India


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