ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカにも教徒がいる。
教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ地方に多い。とくにインドのパンジャーブ州ではインド国内のシク教徒の約4分の3、州人口の59.9%(2001年)[29]を占め、多数派となっている。信徒数は約2400万人、日本には約2000人ほどが居住していると思われる。インドでは少数派でありながら社会的に影響力のある宗教集団である。ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたためともされるが、技術的な事項に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。
シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出し、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かける。カールサーという信徒集団に所属しているメンバーは髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用する習慣がある。そのため髭のあるターバンをつけたインド人男性はシク教徒だとわかる。ターバンの着用はヒンドゥー教徒などでは一般的でないにもかかわらず、世界的にはインド人男性の一般的イメージとなっている(理由はシク教徒を参考)。
女性も髪を切らないのでロングヘアーにしている。現在ではそのようなことをするカールサーのメンバーは減り、半数を割ったとも言われ、それに代わってそのようなことをしないサハジダリーと呼ばれる人が増えている。男性はシン(Singh,IPA: /?s??/=ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ。 政治的にはアカリ・ダルという宗教政党を持つものの、インド国民会議派の支持者も多く、政治的に団結しているわけではない。この州の国民会議派は、マンモハン・シング シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。 シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮と思われる。グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の礼拝の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子の神前の供物を恭しく食べるが、これは日本で神社・仏壇の供えものを有難く頂戴するのと同種の習慣である。さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容はインド料理(チャパティー、パコラ)である。これはヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判である。 日本にあるシク教寺院としては、文京区と神戸市にグル・ナーナク・ダルバールがあり境町にシク教寺院がある。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。
寺院
歴代グル
第1代 グル・ナーナク(1469年 - 1539年)
第2代 グル・アンガド
第3代 グル・アマル・ダース(1552年 - 1574年)
第4代 グル・ラーム・ダース(1574年 - 1581年)
第5代 グル・アルジュン(1581年 - 1606年)
第6代 グル・ハルゴービンド(1606年 - 1644年)
第7代 グル・ハル・ラーイ(1644年 - 1661年)
第8代 グル・ハル・クリシャン(1661年 - 1664年)
第9代 グル・テーグ・バハードゥル(1664年 - 1675年)
第10代 グル・ゴービンド・シング(1675年 - 1708年)
第10代教祖の4人の息子はムガル帝国との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。 16世紀初めに、初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教を開始した。ナーナクはパンジャーブにカルタールプルの町を建設して本拠地とし、やがてシク教はパンジャーブを中心に北インド一帯へ広がっていった。当時この地域はムガル帝国領であり、宗教に寛容なアクバルの統治下で繁栄していった。 第3代グル・アマル・ダースは、ナーナクとその後継者アンガドが作った聖歌と自作の聖歌、何人かのバガット(神愛者)の作品を『モーハン・ポーティ』としてまとめた[2]。 1574年には第4代 グル・ラーム・ダース
歴史
グル・ナーナクの啓示から反ムガル帝国へ
アクバル死後、ムガル帝国と対立するようになり、1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡した。このころから迫害と共に教団組織を整備し、反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。アルジュンの息子である第6代グル・ハルゴービンドは、歴代グルのもつ宗教的支配権(ピーリー)に加え、全シク教徒に対する世俗的支配権(ミーリー)を持つことを宣言した[2]。その後、ハルゴービンドはジャハーンギール帝によって一時拘束された。
第9代グル・テーグ・バハードゥルは、イスラムへの改宗を拒否したカシミールのバラモングループの助命嘆願をした罪により、デリーで処刑された。これらの事件は、進んで迫害に立ち向かい、弱い者を守り、神に意識を向けるシク教徒の理想像である聖戦士(サンチ・シパーヒー)の概念を象徴したものとして影響を与えた[2]。
シク教国の建国からシク戦争へランジート・シング詳細は「シク教国」および「シク戦争」を参照
17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが教団を改革し、教団内の権力構造を廃止した。また、武装集団であるカールサーを組織した。このころよりシク教団は半独立の姿勢を示すようになり、ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大させた。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず、かわりに聖典『グル・グラント・サーヒブ』が中心的な権威を持つようになった[32]。
ゴービンド・シングの死後、バンダー・シング・バハードゥルがムガル帝国への反乱を起こしたが1716年に処刑された。しかしその後もシク教の勢力は衰えず、ムガル帝国の衰退に伴ってパンジャーブには12のシク教のミスル(英語版)(軍団)と呼ばれる小国家群が成立し、シク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していた[33]。
18世紀末にはミスルのひとつであるスケルチャキア・ミスル(Sukerchakia Misl)からランジート・シングが現れ、1801年には首都をラホールに定めてシク教国を建国した。ランジート・シングはサトレジ川以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならずムルターンやカシミールまで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきたイギリスがこの混乱を見て介入を開始した。
1845-46年の第一次シク戦争でシク教国は敗北し、ラホール条約によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には第二次シク戦争が勃発した。この戦争も翌1849年にはシク側の敗北に終わり、全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった[34]。 英領となった後、セポイの乱においてシク教団はインドを植民地支配するイギリス政府に協力。
英領時代