日本語の漢字表記は「市俄古」である。また、シカゴに住む人々は「Chicagoans(シカゴアンズ)」と呼ばれている[5]。
「シカゴ」の語源は、この地に先住するアルゴンキン語族インディアンの言葉の、Shikaakwaであると言われており、シカゴ川流域に自生するヒガンバナ科ネギ亜科に属する、日本のギョウジャニンニクに似た植物[注釈 1](Allium tricoccum)のこと[6]。
歴史詳細は「シカゴの歴史(英語版)」を参照ポンチキの箱を手にするシカゴ元市長ラーム・エマニュエル(右、2006年のイリノイ州下院議員当時)と、元ミシガン州下院議員のジョン・ディンゲル(左)シカゴの古い町並みアル・カポネが行った失業者向けのスープキッチンに並ぶ人々(1931年)
シカゴはニューヨークが対西ヨーロッパから国際都市、ロサンゼルスが対中央アメリカ・アジアへの交易窓口として発展したのに対して古くから内陸交通の要衝として発展し、アメリカの産業・文化の発展と共に都市形成が行われてきた経緯がある。また、イリノイ川河口地点は古くからインディアン部族の交易の場として機能していた。一番古い記録では1673年にフランス人伝道師が訪れている。
1779年にドミニカの毛皮商が入植し、1803年には軍事拠点としてディアボーン砦(英語版)が作られるとともに開拓が進み、1833年には人口200人程度だった[7][8]。1836年に始まったミシガン湖とミシシッピー川を結ぶ運河建設を発端に、土地投機家が大挙して押し寄せ、一大開発都市に発展する基盤が築かれた。1837年に市に昇格すると人口は急増し、翌年にはガリーナ・アンド・シカゴ・ユニオン鉄道(英語版)が開通、以後交通の要衝として大発展を遂げる。その後、1848年にはイリノイ・ミシガン運河が開通、1852年にはイリノイ・セントラル鉄道が開通し、内陸交通の要としての地位を更に高めた。その頃の主要産業は農業で、シカゴはとりわけ小麦を東部の都市に送り出す穀物の集散地として発展、1848年には世界有数の先物商品取引所であるシカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade、CBOT)が作られた。また、畜産業も発達し、1855年には収容頭数が当時最大のユニオン・ストック・ヤード(英語版)が設けられた。一方で、優秀な鉄鉱床が点在していたために鉱業も発展し、1860年には人口6万人に増大し、セントルイスやシンシナティを追い越し、西部最大の都市になった。同年の大統領選挙ではシカゴを地盤とするリンカーン候補(共和党)が当選し、初めて政治でも主導権を握ると、翌年から南北戦争(1861年-1865年)を開始した。このころには30万都市となっていた[8]。トリビューン・タワー(英語版)
1871年にはシカゴ大火によって甚大な被害を受けた。一説によれば牛がランプを倒して大火災になり、炎が燃え尽きるころには街は廃墟になり、ほとんどの公共建築が焼け落ちた。しかし、現在はギャラリーや公式観光案内所になっているシカゴ・ウォーター・タワーは唯一焼け落ちずに残った公共建築物である。被害額は当時にして約2億ドル、家を失った人は10万人に上ったという。しかし、この焼失はシカゴの計画都市化、新都市計画の幕開けになった。被災後に市は木造住宅を禁止し、煉瓦、石造、鉄製を推奨した。