シカゴ交響楽団
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また当時独裁的な運営形態が強かった楽団理事会に対して、楽団員も組合を組織して対抗する機運が全米的に湧き上がり、その抗争に巻き込まれることとなってしまった。一部の理事の息のかかったマスコミからネガティブな記事を書かれる・楽団員どうしが対立してしまうというような事情が生じ、音楽面・運営面でのマルティノンへの評価は賛否が分かれ、1968年に辞任する。なお、マルティノン時代の1964年から小澤征爾がラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任し、多くの録音を残した。

マルティノン辞任からショルティ就任までの1968-69年のシーズンは、副指揮者のアーウィン・ホフマンが音楽監督代行としてつないだ。
第8代ショルティ時代(第2期黄金時代)

1969年、第8代音楽監督としてゲオルク・ショルティが就任。ショルティは50年代に客演した際、キャシディに酷評されたことがあり、彼女がまだ評論をしていたらシカゴに来ることはなかっただろうと述べている。楽団理事長・GM・組合代表も交代して、楽団の雰囲気も大きく変化した。ショルティは当初、カルロ・マリア・ジュリーニとの共同音楽監督を提案したが、ジュリーニが首席客演指揮者としてショルティを支援する体制となった。またベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ブルックナーの交響曲全集をはじめとして多くのジャンルにおいて膨大な録音をデッカに行った。

1970年には、今日でも語り草になっているカーネギー・ホールでのマーラー交響曲第5番の大成功があり、引き続き1971年に行われた念願のヨーロッパ演奏旅行は、ジュリーニも帯同し、ウィーンでのマーラー交響曲第8番の録音も含めた約1.5ヶ月にもわたるイベントであったが、各地で大きな好評を博した(ベルリンのマスコミだけは最後まで認めようとしなかった)。帰国した彼らを市民らが大パレードで歓迎したことは有名である。この出来事以来、シカゴ交響楽団の存在が世界に知られるようになり、Solti/Chicagoという呼ばれ方が定着して楽団員の士気も高まった。

特に70年代後半以降、首席奏者に交代がほとんどないなど安定した実力を発揮し続け、ヨーロッパへもたびたび渡るなど活躍を続けた。そのため、ショルティ時代にはシカゴ交響楽団はライナー時代に次ぐ第2期黄金時代を迎え、世界最高のオーケストラの1つと言われるようになった。グラミー賞の受賞数はおびただしく、受賞したアルバムの抜粋だけで専用アルバムを作ってしまうほどであった。

ショルティとシカゴ交響楽団の来日公演は1977年が初であり、以来1986年、1990年に行っている[注釈 2]
第9代バレンボイム時代

ショルティ就任以来の盟友だったGMが亡くなって他の楽団から移籍してきたGMがスタッフを総入れ換えするなどショルティは少しずつ孤立感を抱き(ショルティが相談したロストロポーヴィチの言う通りになった、と自伝に記している)1991年の創立100周年を機にショルティは勇退し、楽団員投票の結果、僅差でアバドシャイーを抑えて第9代音楽監督にダニエル・バレンボイムが選ばれた。バレンボイムは70年代から客演のみならず多数の録音を行ってきた(殆どがDGであったが、音楽監督就任後はERATOとTELDECに)。音楽監督就任後、モーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振りや、リヒャルト・シュトラウスの楽劇《エレクトラ》の演奏会形式での演奏、現代作品の積極的な演奏など新たな機軸のプログラムで演奏を繰り広げ、音楽面でもショルティとのアプローチの違いを打ち出し、楽団へ変化を求めた。しかしながらこの時代の特に後半は、プログラム内容の不人気や固定化した客演奏者陣などで、定期会員が減少し赤字経営に陥った。また、ショルティ時代を支えたベテランメンバーの引退に伴って入団した奏者が試用期間を経て正式団員に採用されない・オーディションに合格しても採用を辞退する人が出るなど今までなら考えられないことも度々起こり、音楽監督バレンボイムに対する評価にも変化がみられ、GMの交代に続いてバレンボイムが音楽監督の契約を延長せず、以後客演も控える旨を発表し、理事会側も基本的に同意するに至った。一時はバレンボイム退任を撤回させたい一部の楽団員が、投票によりその意思を明らかにしようとする動きもあって、団内に波風が立ちかけた。

2006-2007年のシーズンは新音楽監督が決まらずに迎えることになるが、首席客演指揮者のピエール・ブーレーズが人事権などの一部を担う形で、新しいシェフの選考は継続される。2006年シーズンより、ベルナルト・ハイティンクが首席指揮者に、ピエール・ブーレーズが名誉指揮者に就任すること、これらの人選は新しい音楽監督の決定とは別の話であるとの発表が楽団からなされた。
第10代ムーティ時代

新GMの熱心なアプローチが実り、2006年秋にリッカルド・ムーティの31年振りとなる復帰公演が予定されたが、ムーティの急病で指揮者・曲目とも変更となった。その代替として2007-2008年シーズンのオープニング・ガラおよびそれに続く定期公演、さらにヨーロッパツアー等の重要公演がムーティに託された。その後も30年以上の空白があったとは思えないほどの客演回数が予定され、シカゴ・トリビューン紙が支持を打ち出すなど、後継候補として最有力視されていた。そして、2008年になり、2010年のシーズンより、ムーティが第10代音楽監督(首席指揮者を含めると第11代)に就任することが発表された。当初ムーティは年齢を理由として契約の更新に否定的だったが、2014年には契約更新を発表した。ムーティは就任直前まではレパートリーを厳選していた傾向にあったが、就任に当たり「アメリカの楽団が指揮者に求めているものは理解している」と述べ、現代音楽初演も多く手掛けるなどレパートリーを拡充している。また刑務所慰問や学校訪問などコミュニティ活動を積極的に実施し、メディアへの露出も活発に行っている。2009年に自主レーベルでリリースしたヴェルディのレクイエムは、同楽団にとって久し振りとなるグラミー賞(クラシック部門最優秀賞)を受賞した。2019年の3月に、楽団員の年金制度などを巡って運営側と楽団員が深刻な対立状態となってストライキに突入したが、ムーティはその早い時期から楽団員のピケに参加するなど楽団員を支持する姿勢を取ってきた。そしてコロナ禍でのオーケストラ自体の活動が休止したこともあり、契約を2023年まで延長している。そして、2022-3年のシーズン終了とともに音楽監督は退任し、終身名誉音楽監督の称号を贈呈された。次のシーズンでは演奏旅行も予定されている。

2024年4月、シカゴ交響楽団は次期(第11代)音楽監督をクラウス・マケラとすることを公表した。マケラは2027年9月に就任する予定とされている。
歴代コンサートマスター

マックス・ベンディックス
(1891?1896)

アーネスト・ウェンデル(1896?1897)

レオポルド・クラマー(1897?1909)

ルートヴィヒ・ベッカー(1909?1910)

ハンス・レッツ(1910?1912)

ハリー・ワイスバッハ(1912?1921)

ヤコブ・ゴードン(1921?1930)

ミッシャ・ミシャコフ(1930?1937)

ジョン・ウェイチャー(1937?1959)

シドニー・ハース(1959?1962)

スティーヴン・スタリック(1963?1967)

シドニー・ワイス(1967?1972)

ヴィクター・アイタイ(1967?1986)

サミュエル・マガド(1972?2007)


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