シカゴ・ホワイトソックス
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アメリカン・リーグの前身であったウエスタンリーグに在籍したセントポールを本拠地としていたセントポール・セインツという球団が今日のシカゴ・ホワイトソックスの淵源である。1900年にマイナー・リーグであったウエスタンリーグがアメリカンリーグに改称し、併せて当時セントポールにあったフランチャイズをナショナル・リーグの許可を得てシカゴに移し、このチームはシカゴ・ホワイトストッキングスと名乗った。これが現在のシカゴ・ホワイトソックスの始まりである。

本拠地をシカゴに移すことに、ナショナル・リーグの許可が必要であったのは、この1900年にはアメリカン・リーグはまだマイナー・リーグであり、メジャーリーグとしてはまだ認識されていなかったからである。そしてこの1900年にシカゴに移ったホワイトストッキングスはアメリカン・リーグ優勝を飾った。今日この年の優勝はマイナー・リーグ時代のものとして、メジャー・リーグの優勝回数には含まれていない。チーム名の由来は、既にシカゴにはナショナルリーグ所属のシカゴ・オーファンズ(現:シカゴ・カブス)が存在しており、このチームが以前にホワイトストッキングスと名乗っていたことになぞらえたものである。

そして1901年にアメリカン・リーグは、ナショナル・リーグに対抗してメジャーリーグ昇格を宣言した。ホワイトストッキングスの初代オーナーはセントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)でプレーし、アメリカン・リーグ創設にも尽力したチャールズ・コミスキーが務めた。前年までオーファンズで投手をしていたクラーク・グリフィス選手兼任監督に招き入れると、グリフィス自身も24勝を挙げる活躍等でメジャー・リーグ昇格1年目の1903年にリーグ優勝を果たす。また、この頃から地元紙シカゴ・トリビューンが、紙面でホワイトソックスと略して掲載するようになったのを機に、ホワイトソックスという名称が一般化した。
ヒットレス・ワンダーズ

1906年には後に殿堂入りするエド・ウォルシュを始め、フランク・オーウェン、ドク・ホワイトニック・アルトロックら強力な投手陣を擁して、チーム打率わずか.230でリーグ優勝した。ワールドシリーズでは、同じ本拠地のカブスとのシカゴ対決となった。この年のカブスはMLB記録となる116勝をあげる程の強さを誇っており、カブス優勢というのがもっぱらの予想だった。しかし、いざシリーズが始まると、第1戦ではアルトロックが、第3戦ではウォルシュがカブス打線を抑え込み、第6戦ではカブスのエースだったモーデカイ・ブラウンを打ち込んだことで、4勝2敗でホワイトソックスが初のワールドチャンピオンに輝いた。打てないまま勝ち続けたこの年のホワイトソックスには、当時「ヒットレス・ワンダーズ」のあだ名がついた程だった。

その後、しばらくチームは優勝から遠ざかることとなり、1908年にはウォルシュがジャック・チェスブロの記録したシーズン41勝に次ぐMLB史上2位のシーズン40勝を挙げるが、チームは3位に留まった。1910年には新本拠地であるコミスキー・パークが開場。1912年にはエディ・シーコットを獲得、1915年にはエディ・コリンズ、シーズン途中にはジョー・ジャクソンを獲得した。こうした補強もあってかチームは徐々に順位を上げ、1917年には100勝54敗という圧倒的な成績で3度目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズでは、ジョン・マグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)と対戦。4勝2敗でジャイアンツを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。
ブラックソックス事件「ブラックソックス事件」も参照1919年当時のホワイトソックスのメンバー

1918年は6位と低迷してしまうが、翌1919年には88勝52敗で4度目のリーグ優勝を果たした。しかしこのようなチームの好成績とは裏腹にチーム内では低水準の給与体制に対する不満がくすぶっていた。オーナーであるコミスキーは選手のユニフォームの洗濯代でさえ渋ったといわれ、どの選手のユニフォームも黒ずみ、当時のホワイトソックスは「ブラックソックス」とあだ名されていた。こうした事情を知ったシカゴの賭博師たちは、シンシナティ・レッズとのワールドシリーズの前に、ホワイトソックスの選手たちに対して八百長試合を持ちかけた。一塁手だったチック・ガンディルがまずこの話に乗ったといわれ、その後、シーコット、ジャクソンを含む7人の選手が八百長に加担することとなった。

結局シリーズは3勝5敗でレッズが勝利したが、シリーズ中から八百長疑惑が取り沙汰されたことに加え、この年の終わりには暴露記事が書かれたことで、八百長は公のものとなった。1年後には大陪審で問題となった選手たちが証言を行い、情状酌量から一度は無罪となったが、これを契機に創設されたコミッショナーによって、上記選手を含む8人がMLBから永久追放となった。永久追放となった選手たちは「アンラッキー・エイト(悲運の8人)」と呼ばれ、ファンの少年がジョー・ジャクソンに対して問いかけた「Say it ain't so, Joe(セイ・イット・エイン’ト・ソー、ジョー;嘘だといってよ、ジョー)」という言葉はこの事件を象徴する言葉となった。ただし、この少年に関する逸話は創作であるという見方もある。

1919年に起こった「ブラックソックス事件」で上記選手を含めた8人の永久追放選手を出し、それ以降は低迷が続いた。1920年代に入るとベーブ・ルースを獲得したニューヨーク・ヤンキース[注 1]がア・リーグの盟主として君臨するようになり、ホワイトソックスはその影に隠れることとなった。1930年代後半を除いて勝率5割を上回ることも稀になり、同じく低迷していたレッドソックスやフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)と最下位争いを続けた。その間、通算260勝のテッド・ライオンズや遊撃手としてのシーズン最高打率.388を記録したルーク・アップリングといった名選手も在籍したが、1950年代まで優勝とは縁がなかった。俗にいうブラックソックスの呪いである。
ゴーゴー・ソックス

1951年クリーブランド・インディアンスからミニー・ミノーソを獲得。ホワイトソックス初の黒人選手となった。ミノーソは俊足巧打の外野手として活躍し、1964年に現役を引退したが、1973年(53歳)、1980年(58歳)と2度に渡ってMLB復帰し、MLB史上2人目の5つの年代をまたいで活躍した選手(「5ディケード・プレイヤー」)として知られる。1950年にはアスレチックスからネリー・フォックスを獲得、1956年にはルイス・アパリシオがメジャーデビューし、リーグ屈指の二遊間コンビを形成した。そして、彼らによる手堅い守備と機動力を重視した野球で、次第に上位争いに顔を出すようになる。1957年にはアル・ロペスが監督に就任。1959年にはアパリシオが56盗塁で盗塁王を獲得するなど、持ち前の機動力が炸裂し、投手陣では39歳のアーリー・ウィンが22勝を挙げる活躍でサイ・ヤング賞を獲得するなど、投打がかみ合ったシーズンとなった。最終的に94勝60敗で40年ぶりのリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは、惜しくもロサンゼルス・ドジャースに破れたものの、この年のホワイトソックスの躍進は「ゴーゴー・ソックス(Go-Go Sox)」と呼ばれ、ホワイトソックスファンを熱狂させた。
人気低迷

その後、上位争いは続けるものの、リーグ優勝にはなかなか届かなかった。1964年にはヤンキース、ボルチモア・オリオールズと激しい首位争いを演じたが、1ゲーム差でヤンキースに振り切られた。また、1967年にも4球団による優勝争いに敗れている。この頃には観客減の打開策として、1968年にはミルウォーキーミルウォーキー・カウンティ・スタジアムで9試合を行うこととなり、年間観客数の3分の1にあたる26万4千人を集めている。アメリカンリーグ西地区所属となった翌1969年にも11試合を行い、20万人を動員した。後にこれに目をつけたバド・セリグシアトル・パイロッツを買収し、ミルウォーキーに移転、現在のミルウォーキー・ブルワーズを創設している。1975年にはホワイトソックス自身もシアトルへの移転が計画されたが、ビル・ベックがチームを買収し、これは取りやめとなった。


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