シカゴ・カブス
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スポルティングはほぼ全ての試合に出場し、47勝12敗で初代最多勝を獲得している。後にスポルティングはスポーツ用品メーカーであるスポルティング社(現在ではNBAの公式球を製造していることで知られる)を創設し、ホワイトストッキングスの理事長に就任するなど、野球界の発展に尽力した。

1879年にはキャップ・アンソン選手兼任監督に就任し、1880年から1886年にかけて5度の優勝を果たした。1883年9月6日の対デトロイト・ウルバリンズ戦では1イニング18得点の史上最多ビッグイニングを記録している。アンソンは強烈なリーダーシップを発揮し、現在のチーム運営の基礎を作る。時には鉄拳制裁も厭わない厳しい采配を行う反面、選手がのびのびとプレーできる環境を作ることに尽力した。ヒットエンドランや投手の先発ローテーションスプリングトレーニングを導入したのも彼だった。選手としても優秀で27年間の現役生活で史上初の3000本安打を達成している。しかし、アンソンは強い人種差別主義者でもあり、当時存在した黒人選手をリーグから全て追い出すことを主張した。アンソンは白人選手チームとしか対戦せず、黒人選手チームとの対戦は練習試合でさえ拒んだといわれる。これが元となりMLBの黒人選手排斥は、ジャッキー・ロビンソンが現れる1940年代後半まで及ぶこととなる。
カブス?2度のワールドシリーズ優勝シカゴ・カブスの優勝メンバー(1906年)。この年シーズン最多の116勝を挙げた。 モーデカイ・ブラウン

その後、1894年にコルツ、1898年にオーファンズとチーム名を変え、1903年に現在のカブス(小熊を意味する)に定着した。かつてボストン・ビーンイーターズ(現:アトランタ・ブレーブス)を5度のリーグ優勝に導いたフランク・セレーによるチーム再建は20世紀に入り徐々に成果を挙げ始めていたが、セレーは1905年のシーズン途中に結核のため監督を退き、フランク・チャンスが選手兼任監督に就任した。「比類なきリーダー」と言われたチャンス率いるカブスは、1906年にはシーズン最多記録となる「116勝」を挙げリーグ優勝を果たした。この頃のカブスは「スリーフィンガー(三本指)」の愛称で知られるモーデカイ・ブラウンをはじめ、エド・ロイルバックジャック・フィースター、カール・ラングレン(英語版)、オーバル・オーバーオール(英語版)といったシーズン防御率1点台で投げきれる投手を多く抱える投手王国を形成し、一塁手チャンス、二塁手ジョニー・エバース、遊撃手ジョー・ティンカーによる内野陣は多くの併殺プレーを見せた。初めて挑んだワールドシリーズでは同じシカゴを本拠地とするシカゴ・ホワイトソックスと対戦。この年のホワイトソックスもエド・ウォルシュをはじめとした強力な投手陣を擁していたが、「ヒットレス・ワンダーズ(英語版)」と呼ばれたように極度の貧打のチームであり、戦前の予想では攻守共に圧倒的なカブスが有勢と見られた。しかしシリーズではホワイトソックスの強力な投手陣の前にカブス打線が沈黙し、結果2勝4敗で敗れた。

1907年も107勝をあげ、リーグ2連覇。雪辱を期すワールドシリーズではタイ・カッブを擁するデトロイト・タイガースと対戦した。そして今度はカブス投手陣がタイガース打線を抑え込み、4勝1敗でこれを下して初のワールドシリーズ優勝を果たした。

1908年はニューヨーク・ジャイアンツとの激しい首位争いを演じ、プレーオフの末にリーグ3連覇。2年連続でタイガースとの対戦となったワールドシリーズも4勝1敗で制し、2年連続のワールドシリーズ優勝を果たした。
1910年代 - 1930年代

1910年のリーグ優勝以降、しばらくチームは優勝から遠ざかることとなる。1913年にはエバース、1916年にはティンカーがそれぞれ選手兼任監督を務めたが、どちらも優勝には届かなかった。1916年には本拠地を現在のリグレー・フィールドに移した。この球場は元々は1914年には「第3のリーグ」としてMLBへの加入を求めていたフェデラル・リーグシカゴ・ホエールズの本拠地球場だったが、1915年のフェデラル・リーグ解体の際、ホエールズの経営陣(チャールズ・ウィーグマン(英語版)、ウィリアム・リグレー(英語版)ら)にカブスが譲渡されたの期に、老朽化が進んでいたウエスト・サイド・パークから移転する形となったものである。1918年にカブスはリーグ優勝を果たしたが、この球場で初開催となったボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは当時投手を務めていたベーブ・ルースに2敗を喫し、2勝4敗で敗れている。以降は再び優勝とは縁のないシーズンが続いた。

1926年、後にニューヨーク・ヤンキースで黄金時代を築くことになるジョー・マッカーシーが監督に就任。1929年にはロジャース・ホーンスビーを獲得し、この年には久々のリーグ優勝を果たした。翌1930年のシーズン途中にマッカーシーがチームを離れると、ホーンスビーが選手兼任監督に就任。同年にはハック・ウィルソンが当時のナ・リーグ記録となる56本塁打、MLB最多となる191打点を記録したが、セントルイス・カージナルスに優勝を奪われてしまった。翌1932年には3位に沈むなど、成績が振るわなかったことから1932年のシーズン途中でホーンスビーは監督を解任され、一塁を守っていたチャーリー・グリム(英語版)が選手兼任監督に就任する。グリムが監督になるとチームは一気に白星を重ね、首位ピッツバーグ・パイレーツをかわしてリーグ優勝を果たす。


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